らんぼ~流 山屋の視点
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 民研では毎年大学祭になると、研究報告会と合わせて恒例になっている「日本妖怪伝承展」という出し物をする。
 一言で言うと、ただのお化け屋敷なんだけれど、宿老と渾名されている六回生の先輩の言うところでは、フィールドワークや文献資料をもとにして、特定の地方を取りあげて行うのに、民俗学的意義があるとのこと。
 そう言いくるめられたあとで、里見先輩に真意を質すと、
「うちは滅多に羽目をはずせないからね」
 と、苦笑された。
 去年のテーマは東京都。
 わたしはアズキアライの役だった。
 根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した『耳袋(みみぶくろ)』によれば、新宿内藤宿の小笠原(おがさわら)鎌太郎(かまたろう)という旗本の家にいた妖怪だという。深夜、台所から聞こえてくるカシャカシャという不思議な音。東北地方の座敷童(ざしきわらし)と同じように家に棲み憑く姿なき家の怪。
「おい、菅原(すがわら)。そこんとこの石垣、もうちょっとリアルにならない? 苔を生やすとかさ」
 毎年、この行事のためだけに大学に残っていると公言して憚らない宿老さんの檄が飛ぶ。
「もとがベニヤですからね。実際の石組みのようにはいきませんよ」
「里見、お前、美術部に知り合いいただろ? 日本の陰影美の創造だとか何とか言って連れてこい」
「無理ですよ。向こうだって展示の準備で忙しいんですから」
「強弁詭弁はお前の十八番(おはこ)だろ?」
「失礼な」
「おい、そこ、わかってんだろうな? 来年のテーマは鬼だからな。体育館を借り切って、平安京を再現する!」
「まだ、大学にいるつもりですか?」
「いい加減、成仏してくださいよ」
「誰か、あの人、御祓いして・・・」
帰命不空光明遍照大印相摩尼宝珠蓮華焔光転大誓願(おんあぼきゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん)――」
 里見先輩たち男性陣は、本所七不思議のひとつである〝置いてけ堀〟のセットを作るのに余念がない。
 構ってもらいたくて、
「姿の見えない妖怪にどうやって扮すればいいんですか」
 と、拗ねてみせると、そのままでいいんじゃないと憎まれ口を叩かれた。したり顔にげんこつを振り上げたところでやっとまともな返事が返ってくる。
鳥山石燕(とりやませきえん)河鍋暁斎(かわなべしょうさい)はたしか描いてなかったはずだから、最終的には水木(みずき)先生に頼ることになるだろうけど、僕としては真弓のイマジネーションに期待してる」
「全然、アドバイスになってない」
「相手してやりたいところだけど忙しいんだ。宿老、見てよ。いつになく張り切っちゃってるんだから。まあ、とにかく、自分で考える。それが民研(うち)の基本方針。――はい、これが資料ね」
「こんなにたくさん?」
「そういうこと。――ああ、それから、睦美ちゃんたちが捜してたぞ。〝片葉の芦〟の造花を手伝ってくれって」
「わかってますっ」
 頼みの彼氏はプレッシャーと一緒に民研所有の資料をどっさりと手渡してくれた。書籍とコピーを綴じた冊子の詰まったダンボールを両手で受け取りながら、舌を突き出してみせるわたしの耳元に、彼は一言、
「可愛いよ」
 と、囁いて身を翻した。
 ――敗北。全然、こたえちゃいやしない。
 学生課に申し込んでようやく借りることができた一般教育棟の一階教室と別棟四階にある民研の部室。その二カ所で並行して行われている大学祭の準備で誰もがへばり気味。携帯電話は必需品だ。エレベータの使用は制限されてるし、連絡のためだけに長い階段を往復する気にはならない。
 宿老さんに借りた携帯で睦美たちに少し遅れる旨を伝えると、賑やかな教室の片隅に陣取って里見先輩のくれた資料に目を通した。
 何から手を着けてよいかわからなかったので、とりあえず里見先輩に伝え聞いた『耳袋』の内容を確認する。
 お奉行様の蒐集した怪異談。本当にこんなことがあったのかしらと一人微笑みながら、目的の記述を探しているとようやくそれらしき項目を発見した。思いのほか短い記述だ。
 ええっと、年を経る(ひき)の業なりと聞きしと人の語りしが――。
 蟇?
 もしかして、アズキアライってヒキガエルのこと?
 しばし、硬直したあとでようやく里見先輩のしたり顔の意味に気がついた。
 ったく、もう。
 何が、そのままでいいんじゃない、よ――。
 ふくれっ面で柳田国男(やなぎだくにお)翁の『妖怪談義』をめくっていると、すぐそばの埼玉県ではアズキトギといって川辺にいる音の妖怪と書いてあった。
 家の怪と音の怪。
 ほんの数十キロ離れただけなのに、この違い。
 さらにアズキアライは名前を変えて北海道と沖縄を除く日本のほとんど全土に伝承があった。
 日本古来の神々のそれと奇妙に符合する民俗学的な分布図。面白いと思った。
 夜になって里見先輩に家まで送ってもらう途中、
「妖怪って何だと思いますか?」
 と、聞いてみた。
 里見先輩は一言、
「遅れて来た神だ」
 と、答えた。
 なるほど。
 里見先輩ならではの独特な表現に感心した。
 遅れて来たばかりに聖の顕現(ヒエロファニー)となれなかった生活の中の不思議を説明した「真理」、それが妖怪の正体だと里見先輩は言ったのだ。
 せっかく見つけた面白い話のきっかけの失いたくなくて、わたしはそばにあった公衆電話に駆け込んだ。
「お母さん? わたし、今日、民研の部室に泊まるから。――うん、大学祭の準備で忙しくって」
 不思議そうにわたしを見つめる里見先輩に片目をつむってみせると、彼は優しく頷いてくれた。
 ある時代から――、そうだね、宗教的な神々が定着すると同時に人間の知識が一定の水準まで蓄積されてからってことだけど、世の中の不思議を説明する「真理」は一定の条件を兼ね備えないと神になれなくなったんだ。
 条件というのは、要するに御利益があるかないかって考えていいんですか?
 正解だ。他にも歴史的背景とかいろいろあるだろうけど、一番大きなものはそれだね。御利益のある不思議は神となり、その他のものは怪となる。もっとも、日本にはもともと祟り信仰ってのがあったから、大きな災厄をもたらす怪については、逆に神として崇められたんだろうけど。
 それだって、「祟らないでください」っていうお願いをするためでしょう? 御利益を求めるのと同じだわ。それに強力な怨霊を味方につけて、他の魔物を寄せつけないことだって御利益だし。日本人の傲慢ですよね。
 言ってしまえばそうかな。民族の思想はその民族の宗教的背景を理解しないと駄目だってよく言われるけど、NOと言えない日本人の性格もその辺に由来してるような気がしないかい?
 長いものには巻かれてしまえ、ですか?
 上手い引用だ。――「長いもの」っていうのは、竜とか蛇とかに関係があるのかな? 今度調べておこう。
 わたしも手伝います。でも、先輩? 御利益があるのが神だっていう考え方に、先輩はもともと反対だったでしょう。さっきの説明は一般論としてのものですか?
 もちろん。僕の考える神は「運命」に近いものだって、前に話したよね。その考えは今も変わってないよ。神という存在が本当にこの世にあるとしても、それは人間の考えをはるかに越えている。宗教の神はただの偶像さ。イエスや釈尊にしたって同じだ。思想あるところに神はいない。よって、御利益も救済もないんだ。ほとんどの宗教に人格神だとか救済とかがあるのは、それを抜きにして考えると、宗教そのものが一種の世界観や倫理観になってしまうからさ。それじゃ、思想を広めるのが難しいし、第一、民衆に理解されにくくなる。真弓も禅は苦手だって言ったろ。禅は仏教のひとつの完成形だけれど、究極において神も仏も否定しているからあれだけ理解しにくいんだ。
 先輩って、すごいクリスチャンですね。
 確かに宗教的に見たら僕は極悪人だね。何があっても救われない。
 でも、わたしもキリスト教の善悪二元論的な考え方には反感を感じます。異教徒は悪であるっていう思想が十字軍とかの悲劇を生んだし、現在もカルトとか生んでますから。確かに善を定義するには必然的に悪の存在が不可欠になるから、難しい問題だっていうのはわかるけど。
 悩み多き乙女ってとこだね。ま、難しい話は置いといて、とりあえず、お酒でも飲むかい?
 はい。誘惑してください。
 その不敬ゆえにキリスト教は彼を罪に問う。
 彼は悪だと。
 仏教においてはどうだろう?
 全ての人間は仏になる種を秘めている――一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の思想は仏教の根幹だ。この思想は日本においてすでに八世紀には拡大され、万物に仏性があるとされた。それは中国仏教における草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)の思想に酷似している。人に仏性があるように、道ばたの石にも仏性がある。わたしはこの思想に感銘し、自身の中にある神の肥やしとした。
 しかし、文献を読み解くにつれて、魅力的だった仏教の一元論的な救済思想にも、キリスト教的な善悪二元論の匂いを感じるようになった。
 一切衆生悉有仏性を説いている大乗の『涅槃経(ねはんきょう)』の中に、同時に「一闡提(いっせんだい)」の人間だけは救済できないとされていたからだ。一闡提とは、己の罪を慚愧(ざんぎ)しない善根を持たない人間を指す。すなわち、仏法を誹謗する人間だ。
 仏教においても、救済できない悪はあったのである。有情無情を問わず全てのものに仏性がある、一見、善悪を超越したかにみえる近代日本仏教のこの解釈は、むしろ善悪の問題を放棄しただけのような気がした。
 無論、仏教者の中にも善悪の問題を真剣に問うた人物はいる。親鸞(しんらん)聖人がそうだ。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
 悪人正機説と呼ばれる親鸞聖人の思想は、弟子の唯円(ゆいえん)が著したとされる『歎異抄(たんにしょう)』第三節であまりにも有名だ。しかし、これには著者である唯円の主観が大きく影響している。聖人の善悪に対する考え方は主著の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』から学ぶべきであり、『歎異抄』はあくまで二義的な資料でしかない。何故なら、『歎異抄』は師である親鸞聖人の言葉を、彼の死後、唯円が編集し著した聞書に過ぎないからだ。
 自力があって、初めて他力がある。
 主著『教行信証』の中で親鸞聖人は、父を殺害するという五逆罪を犯した阿闍世(あじゃせ)王を決して無条件に成仏できるとはしていない。『涅槃経』の中の釈迦が阿闍世王にしたように、悪人が心から慚愧の念を起こし、善き師につき、仏法に帰依して、はじめて救われるのだと親鸞聖人は言っているのだ。聖人を心の師と仰いだ蓮如(れんにょ)が『歎異抄』を秘本としたのも、半ば無条件に悪人の成仏を説く『歎異抄』の持つ危険性に気付いたからであろう。
 宗教は個人を救済するとともに、社会を救済する義務を負う。それは言うなれば、武士に帯刀を許し、殺人さえもが横行していた中世の社会に対してある意味で強制力の伴う指導力が必要だったということである。地獄や因果応報と呼ばれる「脅迫」という名の指導力が。その際、宗教において不敬を叫ぶものを悪とするしかなかったのだ。何故なら、悪を失った宗教はその指導力をも失うからである。
 わたしはそっと溜め息をついた。
 全ての宗教に生ぐさい偽善を感じる。
 布教という名の勢力闘争とその時代を統べる権力への媚び。そのためには「真理」の変形さえも辞さない。
 西洋宗教史をひもとけば、キリスト教にも現在では認められていない輪廻転生の思想があったことがわかる。しかし、四世紀、コンスタンチヌス帝の時代にローマ帝国の国教となるべく、その思想は棄てられた。さらに六世紀に行われたコンスタンチノープルの宗教会議において、輪廻転生の思想は異端であると公式に宣言される。これらは全て国家や教会支配体制の維持のためだ。輪廻転生の「真理」を信仰していたカタリ派やグノーシス派の人々は異端とされて虐殺まで受けた。ユダヤ教においてもそうだ。かつて、ギルガルと呼ばれた輪廻の思想は科学志向の西欧社会に対応するため、やはり歴史の闇へと葬られている。
 同じような生き残りのための方策は、日本でも行われた。わたしの家は浄土真宗だけど、真宗を代表とする近代の日本仏教もまた、国家と時代に(おもね)るためにその根本となる教義(ドグマ)を歪めて解釈した歴史を持つ。
 元来、日本の仏教は、明確な「儒釈道合一論」が確立された隋の時代に中国から輸入されたものだ。それを基盤にした「神儒仏合一論」、例を挙げれば本地垂迹説のような神仏混淆論が日本仏教の奥底に流れているのは当然だろう。だけど、そのような奈良期の神仏習合や明治維新における神仏分離は別にして、昭和の大戦で日本仏教が自らの「真理」を曲げてまで組織の存続を謀った所業を、わたしは認めることができない。天皇を神とした大戦下の国策のもと、「戦地に赴き皇国のために死ぬことが仏の道に通じる」と説法し、多くの人々を死地に追いやる手助けをした仏教の罪を。
 仏教もまた他の多くの宗教同様、思想が生き残るための最も恥ずべき道を選んだのだ。
 果たして、宗教とは何なのだろう?
 この問題に対して、わたしは何度か里見先輩と話したことがある。里見先輩は、わたしの想う神様を健全だと評価したけれど、宗教的な神にはなれないねと言って笑った。わたしは宗教の神の性質を一面でしかとらえていないと。
 宗教が目指していることは、人間に涅槃を提示することだ。涅槃というのをわかりやすく安息場所(サンクチュアリ)と言い換えてもいい。それがどういうことかわかるかい?
 救済・・・じゃないんですか? 天国とか。
 うん。確かに正解だけど、それはほんの一部分だ。宗教はそれぞれの宗派における「真理」を提示して、人間存在の意味を解き明かし、神という究極の母胎に人間存在の根を下ろさせることを目的としている。
 あ、そうか。そういう表現をすると解釈しやすくなりますね。要するに、「人間とは何か」という疑問に答えるのが宗教であると。
 その通り。宗教はもともと哲学から生まれたものだからね。「人間とは何か」っていう哲学の基本的な命題が下地になっていて当然なのさ。それについて、ほとんど全ての宗教では、「人間は神への途上にある」という解釈を与えているよね。真弓はどう思う?
 わたしは・・・人間は人間で、やっぱり神様は近寄りがたい存在だと思うけど。
 甘えんぼだなあ。
 だって、そっちの方が安心できるでしょう? 見守られていたいんです。
 相手が神様じゃなきゃ、嫉妬してるところだ。
 本当ですか?
 うそ。
 ひどい。嬉しかったのに。
 まあまあ。むくれないの。こういうふうに話したのは、こないだ真弓が分かりにくいって言ってたことに繋げるためだったんだから。
 あ、ニーチェですか?
 そう。嬉しくない?
 うーん。・・・許可します。
 人間とは何か。
 この疑問にドイツの生んだ偉大な思想家フリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェは答えて言った。
「人間は、自己の中に眠る、キリスト教が知り欲したよりももっと完全で偉大な人間性への途上にある」と。
 この完全で偉大な人間性に至った人間こそニーチェの唱えた「超人」である。
 彼は言う。
「自己の能力の領域が人間の唯一の領域である。人間に作ることのできないものは、人間的ではない。人間は人間の能力の領域の中に止まるべきであるが、しかし、この領域の中にも人間の偉大なる姿、目標となる姿が隠れている。人間は神を作ることはできないだろうが、しかし、超人を作ることはできるのだ。それを最上の営みとせよ」と。そうして生まれたのが「神は死んだ」という有名な言葉である。
「神は死んだ」と叫び、人間には原罪などないのだと言い切った彼は、キリスト教の倫理観や道徳観を言葉を極めて批判する。さらに、偽善的なキリスト教の善悪二元論を『善悪の彼岸』という著書をもって看破した。
 その善悪を超越した人間を具現化したのが、ドストエフスキーであろう。
『悪霊』の中で彼は、あらゆる罪悪と放蕩の限りを尽くし、まるで悪魔と神が共存しているかのような人間性を持つスタヴローギンという男を創造して、キリスト教的善悪二元論では伺い知ることのできないような深遠な精神世界を構築した。また、『白痴』においては、スタヴローギンとは対照的な「無垢なる人間」像として、善と寛容の支配する社会の実現を願った純粋な心の持ち主、ムイシュキン公爵を造型している。
 しかし、わたしは彼らの言わんとした世界もまた、幻想に過ぎないような気がしてならない。宗教や道徳、共同体の倫理を否定し、徹底した個人主義を突き詰めた彼ら。宗教が説かんとする道徳を弱者の奴隷道徳とし、人間の真なる尊厳の探求を高らかに歌った彼らの思想は壮絶なまでに美しい。
 しかし、人はそれほど強くなれるのだろうか?
 神なしで生きられるのだろうか?
 そういうことを考えるのは、ただわたしが弱いだけかも知れないけれど、個人主義を貫く人間の中にも自己を超越したところにある神の像を求めていなくては、人は生きられないような気がする。
 ニーチェの唱えた「超人」は宗教の枠を越えた独自の存在であるとはいうものの、あくまで人間であり、自己である。暗黒の海原で迷子にならないためにはどこかに燈台が必要だ。進むべき道を指し示してくれる大いなる光が。作品の中でスタヴローギンは自殺し、ムイシュキンは挫折した。ニーチェも四十四歳にして発狂している。彼らは「超人」になったのだろうか。それとも神の光を見失ったのだろうか。わたしは後者だと思う。人の人生や幸福はその本人でさえわからないものだとロシアの詩人は言うけれど、わたしには彼らの噎び泣く声が聞こえてくるような気がする。
 やはり人には宗教が、いや、宗教の説く安息場所が必要なのだ。導いてくれるものの存在が必要なのだ。それは動かしようのない事実だと思う。
 その点において、宗教は人間を熟知している。居場所を求めて彷徨う人間の弱さを知り抜いている。何故なら、宗教は人にあわせて作られたのだから。人間があってはじめて、そこに宗教が生まれたのだ。
 釈尊は言う。
「わたしは人がよりよく生きる道を説いているだけである」と。
 人がよりよく生きる道。これを国家憲法になぞらえるなら、神だの、救済だの、地獄などというものは、その憲法を掲げた国家を円滑に動かすための法に過ぎないのではないかと思う。
 父を殺すこと。
 母を殺すこと。
 僧を殺すこと。
 仏教の組織を乱すこと。
 仏の躰から血を流すこと。
 仏教における五逆罪は、まるで仏教そのものを守るために制定された刑法のようだ。ならば、審判を下す神とは、単に人々の心を警邏する憲兵に過ぎない。それなのに、立場を忘れた憲兵はいつのまにか一人歩きを始めた。
 神とは、ただそれだけのことなのかも知れない。
 善悪の狭間に揺れる人の心を戒めるために、方便として生み出された天界の怪物(モンスター)。
 宗教そのものの守護神。
 確かに宗教はある意味で人を癒しているかも知れない。だが、癒しの根本は宗教などではない。人は宗教によって癒されているのではなく、自分で自分を癒している。
 ティンクが死んだときのように、母は今度もわたしを癒しつつある。それは母がわたしを愛してくれるように、わたしも母を愛しているからだ。彼女に愛を注いでいるからだ。
 両親でも良い、恋人でも良い、信念や趣味、仕事でも良い。人は何かに愛を注ぐことで己れを癒している。現在において、多くの場合宗教がその対象になっているに過ぎないだけで、真の癒しの根源はその人個人の愛を注ぐ対象であり、生き甲斐であるとわたしは思う。
 本来、そこに神は無用なのだ。
 人が、神に代わる永遠性を備えた生き甲斐(・・・・・・・・・・・)さえ見つけることができるなら。人が自分の中に愛を注げる生き甲斐を持ち、日々の生活の中でよりよく生きる道を踏み外しさえしなかったならば、神などと称する信仰の対象も心の憲兵も不要となる。
 曲がりくねった人生の山道を、倫理や道徳といったガードレールなしに安全に走ることができるようになったとき、初めて人は宗教的な枠組みを越えた涅槃に到達し、誇り高く生きてゆけるようになるのだろう。ニーチェの言う「超人」とはそういうことなのかも知れない。
「人間は自由な存在だ。何をやっても許される」
 ドストエフスキーは作品の中でそう語った。
「あそこにいる少女を強姦しようが、何をしようが、本来構わないのだ。しかし、そのことに気付いたとき、君はそんなことはしなくなるだろう」と。
 この、一見矛盾している言葉の中にこそ、宗教や倫理、そしてヒトという種を呪縛してやまぬ「思考の檻」からさえも解放された魂の涅槃があるような気がする。

 ゆらゆらと揺れるわたしの思考。
 行きつ戻りつを繰り返し、保護者の名前を呼んで彷徨う迷子のように、わたしは神をなじり、そして、庇護を求めた。

 平安初期の僧景戒(けいかい)が著した『日本霊異記(にほんりょういき)』に語られる数々の因果応報の物語。善行を積んだ人間には仏の救済の手が差しのべられ、悪行を積んだ者は報いを受ける。心正しき人を暖かく見守る神の姿がそこには描かれている。
 ほんの二日前までは、わたしはそうした神の存在を疑わなかった。あの悲劇からわたしだけを救う前までは。でも、いまはわからなくなってしまった。そんなものはただの夢物語に過ぎない。人を裁き、救う者、そんな都合のいいものは天界にはいないのだ。
 人を裁くのは人以外にない、と里見先輩は言った。
 冤罪や偏見は人間の不完全さゆえになくなることはないけれど、最終的な善悪の判断は人に委ねられている。情けは人のためならず。現世人間界における因果応報のサイクルが神の創った賞罰の摂理だと。
 今はまさしくそう思う。
 運命こそ神。
 里見さんの考えが何となくわかった。
 でも、わたしは彼ほど強くはなれない。
 わたしの中の神様はわずかだけど、まだ息をしている。
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