らんぼ~流 山屋の視点
サイトマップ らんぼ~流イチ押しの厳選アイテムショップ
画像投稿掲示板

       10

 朝になると、昨夜の豪雨は嘘のようにおさまっていた。
 テントに当たる雨の音を聞いているとまるで台風のように思われた天候も、恋人が言ったようにただの夕立に過ぎなかったのかも知れない。大きなポリ袋に入れてテントとフライシートの間に置いておいた軽登山靴を履くと、君は歯を磨こうと外に出る。
 テントの外はミルクのように真っ白な朝靄に包まれている。視界が全く利かない。自分の足元さえ煙って見えるほどだ。
「・・・すごい」
 君は思わず声をあげる。
 その声を聞きつけて、恋人がテントから顔を出す。
「おはよう・・・奈津。わ、すげえな。この霧」
 君は冬眠から目覚めたばかりの熊のような恋人の姿にくすくすと笑う。恋人の髪が寝癖で烏の巣のようになっているのが、君にはたまらなく愛おしい。
「おはよう、まーくん。さて、本日の第一問目。霧と靄の定義の違いは何でしょう?」
 君はテントから首だけ出している恋人のそばにしゃがみ込んで、いつものように問題を出す。付き合い始めてからひとつき一月も経たないうちに、君たちの間で成立したコミュニケーションの方法だ。
 今朝も君は機嫌がいい。朝に弱い君にしては極上の部類に入るだろう。
「誰が、まーくんだよ。ったく・・・」
 君と同じく低血圧の恋人はもそもそと頭を掻きながら、朝っぱらからと、ぼやいた。
「答えて」
「視界が何メートル利くかどうかだろ? 数字は忘れた」
「ブッブー、だめですねえ。不正解」
「正確には何メートルなんだよ?」
「ああ、この美しい大自然の営みをメートルで計ろうなんてなんという罪深い・・・」
 君は歌うようにそう言うと、目を腫らしている恋人ににっこりと微笑んで続けた。
「霧っていうのは、風景を幻想的に演出する空気の魔法。靄っていうのは、わたしを優しく包んでくれる大地の息吹。それが正解です」
「なんだよ、それは。じゃあ、いまのこれは何?」
「いまは靄。だけど、わたしが歩き始めると、霧に変わる」
「どういう基準なんだか全然わかんねえ」
「そうだね。だって、わたしがそう決めてるんだから」
「わかった。納得した。だから、コーヒー、淹れて」
「はーい」
 うがいをして歯を磨き終えた君は、テントの中に戻るとコッヘルに水を注いで、コンロにかける。
 二人分のコーヒーを淹れながら、君はシュラフから半身を出したまま再び船を漕ぎ始めた恋人の髪を手で撫でつける。
「うー」
「はい。コーヒー、できたよ。いい加減起きなさい。ったく、ねぼすけなんだから・・・。それにしてもメレンゲみたいな髪してる」
「どういう意味だよ?」
「ツノがいっぱい立ってるって意味」
「あ、そう」

 結局昨日の夜は食べなかったクラッカーとクロレラ蛋白のソーセージで簡単な朝食を済ましていると、視界を遮っていたガスもようやく薄くなりつつあった。まだ、空の様子ははっきりと確認できないが、ずいぶんと明るくなっている。おそらく、雨を降らすほどの雲はないだろう。
 天候も回復してきたことだし、せっかくここまで来たのだからと、君たちは宮之浦岳に登る前に九州第二の高峰永田岳に登ることにした。レインギアを着込んで、スパッツをつける。もう雨に降られることはないだろうけど、細い道の両側を埋め尽くしたヤクザサには、昨夜の雨の名残と朝露がびっしりと付いている。そのまま歩けば、十メートルも進まないうちにずぶ濡れになるだろう。それに何と言ってもここは屋久島だ。空が明るくなってきたとはいうものの、いつ天候が急変するともかぎらない。備えあれば憂いなしである。
「何を持ってったらいいかな?」
「カメラとコーヒーと非常食」
「はーい」
 君は恋人の言葉に従って、ウエストバックにカメラとチョコを放り込む。コーヒーの入った小型のテルモスは恋人が持ってくれている。残った荷物をテントの中にデポすると、君たちはゆっくりと歩き始めた。比較的ペースの遅い君たちでも永田岳までは二時間半もあれば余裕で往復できる。まだ時間が早いので、永田岳に続いている登山道には人影は見えない。小屋泊まりの登山者がこの辺に来るまでにはもう少し時間がかかるだろう。
 窪地になっている焼野三差路からほんの少し登山道に分け入っただけでもう腰から下が濡れてしまった。ササをかき分ける両方の手も水に漬けたようにびっしょりだ。
「手袋するの、忘れちゃったね」
 君は濡れそぼった手を気にしながら、恋人に声をかけた。
「そのくらい我慢しろよ。かじかむほど冷たくはないだろう?」
「うん。それは平気だけど・・・失敗だったな。あとで痒くなりそう」
「アレルギーの申し子だね」
 恋人はそう言って笑う。
「失礼ね。これってアレルギーとかそういう問題じゃないと思う。デリケートな肌をしてるって言って欲しいな。それに、わたし、誰かさんみたいに花粉症じゃないもん」
「いまじゃ花粉症は人であることの証みたいなもんだ。でも、奈津みたいに牛乳飲めないやつはそういないぜ」
「コーヒーの透き通るような琥珀色を汚す原料をわたしの免疫系が許さないだけ。細胞レベルの忠誠心ってやつよね」
「どういう忠誠心だよ?」
「そういう忠誠心。コーヒーにクリーム入れるじゃない? そうしたら、どうなる? 白濁するのよ、白濁。ねえ、白濁って気持ちの悪い言葉だと思わない?」
「すっげー、偏見」
 恋人は笑いながら、コーヒーに混ぜものをするという悪習については俺も賛成できないなと同意してくれた。
 濡れたササに閉口しながらも進んでいくと、辺りを覆い尽くしていたガスも消え、いくらか視界が利くようになった。まわりに見える小高い丘のいくつかには、巨大な石が組み合わさってのっている。どうして自然にこんな造型が生まれたんだろうと君は不思議に思う。まるで巨人が積み石をして遊んだあとのようだ。窪んだ場所に石があるならわかる。だけど、あんな丘のてっぺんに図ったように置かれてあると、何となく人智を越えたものの意思が働いているようにしか思えない。
 ゆるやかな道をしばらく歩くと、やがて永田岳への取り付きに到達した。ここからの道はいままでのそれと違って、急な上り坂になっている。君は喘ぎながら坂道を登り、そして、後ろの恋人を振り返って言う。
「ねえ、今日の永田岳にはわたしたちが一番乗りだよね」
「そうだな。永田のほうから登ってくる人がいなかったら間違いない」
 恋人はまだ人影の見えない後ろの道を振り返りながら言った。いつもより心持ち急いでいるので、さすがに恋人も息が切れている。
「でも、永田のほうからは道が悪すぎてもう登れないって聞いたけど」
「そんなことないだろ。いつの時代にも猛者っていうのはいるもんだ。未踏峰の登山とかだったらもともと道がないところを登るわけだろう?」
「それはそうだね。でも、向こうの道は昔から蛭が出るって言うよ。森の中を歩くのは好きだけど、蛭とか出るって言われたら、わたし、絶対行かないなあ。あんなのが上から降ってきたら、この世の終わりって感じがする」
「あはは。古い小説読んでるなあ。それ、泉鏡花だろ?」
「うん。真彦さんも読んだの? えっと・・・凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆地と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、其が代がわりの世界であろう」
「へえ、脚色なしかい? さすがに記憶力いいな」
「どうせ、余計なことに脳味噌の容量使ってるやつって思ってるんでしょう?」
「まだ、昨日のことを根に持ってんのかよ。いまのは、ちゃんと褒めたんだぜ」
「じゃあ、これを最後に水に流してあげる。だけど、文章をまるまる覚えてたのは、あんまり衝撃的なシーンだったから。だって、山歩きをしてたら、いつかは遭遇する可能性だってあるわけでしょう? できることならお目にかかりたくはないけど」
「まあね」
「ねえ、もし、そうなったらわたしのこと、守ってくれる?」
「いいや、思いっきり走って逃げる」
 恋人は笑ってそう言うと、別に血を吸われたからって命の危険はないよ、と続けた。
「もおっ。嘘でもいいから守ってやるって言えないかなあ?」
「駄目。俺は多分奈津よりああいうの苦手だ。首にでも貼りつかれたら、きっと卒倒すると思う」
「意気地なしっ」
 永田岳の山頂には思った通り誰もいなかった。おそらく、今日は君たちが初めての登山客だろう。
 しかし、山頂から一望できるはずの永田の町の方角にはまだ濃いガスがかかっていて、全く展望が利かなかった。君たちは温かいコーヒーを一つのカップで飲みながら、しばらく霧が晴れるのを待ってみた。だけど、視界を遮るそれはいっこうに晴れる気配がない。
「残念だなあ」
 君は海が見えるはずの方角を指さして言った。
「本当だったら、あの辺に口永良部(くちのえらぶ)島が見えるはずなんだよ。師匠の家で写真を見せてもらったことがある。ぼんやりと、まるで空に浮かんでるように見えるの。楽しみにしてたのに――」

 一時間後、焼野三差路に戻った君たちは、少し早めの昼食を摂った。テントをたたむと、手早くパッキングを済ます。二日分の食料が減っただけ、荷物は軽くなったはずなのに、やはり重いのには変わりない。完全には乾ききってないテントの水分が、なくなった食料の重さを補っているのかも知れないと君は思う。それに永田岳への行程は手ぶらだったので、よけいに重く感じるのだろう。
 君は何度か背中を揺すってパックの坐りを調整すると、ゆっくりと足元を確認するように歩き始めた。目の前に聳える宮之浦岳の山頂にようやく立つときがきたのだ。昨日見た限りでは、すぐそばのように感じた山頂も実際に登ってみると、かなり距離があるように感じられる。今度は忘れずに手袋を付けている君たちは、深く茂ったヤクザサをときどき手がかりにしながら坂道を歩く。
「――結構あるね」
 君は少し違和感を感じ始めている足を気にしながら、息をつく。疲れが急に出てきたような気がするが、これを登ってしまえば、あとは下りばかりだ。宮之浦岳より先のコースの途中には、やはり千八百メートルクラスの高峰くりおたけ栗生岳があるけれど、地図で確認する限りはあまり急峻な感じの山ではない。どちらかと言えば、山というより丘陵地といった感じだ。その後も多少のアップダウンはあるだろうが、大した高低差はないはずである。
 君は大きく息を吐いて、頑張らなくちゃと自分に言い聞かせる。屋久島の自然の中で恋人と過ごせる時間は、もう明日までしかない。今夜の宿泊場所である淀川小屋に到着すれば、あとは車が入って来れる林道まで二時間とかからない。明日は小屋のそばを流れる淀川でゆっくりと水遊びをして過ごす予定だけれど、それも午後の早いうちに切り上げるつもりにしている。下山後の宿泊に予約を入れている民宿には、今では珍しい露天風呂があるという。君たちは、それならばと、露天からの景色を楽しめる陽のあるうちに投宿しようと決めていた。その民宿の夜が終われば、次の日の午後にはもう機上の人だ。君はそれまでの時間を一生懸命に楽しもうと思う。
「ああ、直線距離にしたら五百メートルってところなんだろうけど、ちょっときついな。頂上が見えてるから、自然にペースが速くなるんだよ。少し、休むか?」
「ううん、口惜しいから休みたくない」
「無理すんなよ。足、痛いんじゃないのか?」
「少しだけだから、心配ない」
「強情なお嬢さんだ」
 恋人は君の前に回り込むと、意識的にペースを下げてくれる。君にはその心遣いが嬉しいようで、どこか口惜しい。
 それから十四、五分歩いただろうか。君の前に大きく視界が開いた。頂上に着いたのだ。
「あ――」
「着いたね」
 君は『宮之浦岳』と書かれた道標の前まで行くとそれをじっと見つめる。
 標高一九三五メートルの九州最高峰。
 先に来ていた一組の老夫婦にこんにちわと挨拶をして、君たちは狭い山頂をぐるりと見てまわる。見渡す限り、海と山だ。人工の建物や人の住んでいる集落は一つも見えない。天候は順調に回復しているらしく、ガスは希薄になっている。ほんの二時間程前にいた永田岳の頂上からとは違って、今度は三百六十度展望が利く。遥か南の海上にトカラ列島、西に永田岳。
「すごいね・・・」
 君は眼下に広がる無数の山並みを見つめる。場所によってはガスがかかっているものの、視界を遮るほどではなく、逆にその風景を幻想的に見せている。君はわずかに湿った空気を吸いながら、そっ
と目を閉じた。
 太古の時代から続いている樹齢数千年の屋久杉の森。さらさらと音をたたえて流れる清水。深い霧の中、湿った落ち葉を踏む音に振り向くと、最初の夜に出会ったヤクシカが大きな瞳を見開いて黒い鼻をひくつかせている。特別意識を集中させなくとも、その一連の光景は君の目の前に自然に浮かんでくる。
《もう鹿の声は聞こえなくなるだろう》
 いまから二百年もの昔、まだこの島に空港ができる前、この山に登った岳人は、そのときの思い出をそう記している。
《素朴な浦辺の村々も、観光客を迎えるようになってはその趣を変えていくことだろう。再遊などせず、土産物も絵葉書もなかった昔の屋久島の思い出に浸っていたほうが懸命かも知れない》と。
 しかし、この山から鹿の声が途絶えることはなかった。一時は地球規模の環境悪化に苦しんだものの、山はその自然を残し、いまでは年々それが豊かになりつつある。その岳人が残した百の山に関する手記にある半分以上の山はいまではもう登れなくなっている。山が去ったのではない。人が山から去ったのだ。自然の中に切り開いた登山道という名の人工物は、通る人のないいま、年々荒廃して、もとの自然に還っている。
 それは悪いことではない。良いことでもない。すべては自然の営みだ。人が自分たちの分を守ったというだけだ。遥かな昔、自然の野山を削り、海に土砂を流し込んで住宅地を確保したように、二十二世紀になったいま、電脳空間というよりよい環境に人間が身を移し始めただけだ。あと、百年もすれば人は完全に外の世界に出なくなるだろう。もしかしたら、自分たちが山に登った最後の人類になるのかも知れない。
 君はそう思う。
 だけど――。
 君はゆっくりと目を開けて呟く。
「だけど、わたしはここにいる」
 そして、ポケットに入っていたキャンディーの包み紙を引き出してそっと地面に落とす。小さな紙屑は地面に着く前に風にあおられて舞い上がり、やがて見えなくなった。
 その行方を恋人が目で追っていたのに気付き、君は少し慌てた。
「いけないことだよね・・・」
 君は言い訳するように恋人に呟いた。
 恋人は微笑みながらゆっくりと首を振り、そして、君の肩を優しく引き寄せる。
「なあ、奈津・・・」
 恋人はそう言うと、眼下の山並みの一角で指で示して続けた。
「あれは霧だろ?」
 君はその言葉に少し驚く。恋人が指で示したほうには、わずかに残ったガスがかすみのように森を覆っている。
「え? どうしてわかるの?」
「そして、永田岳のほうで見えてたのは霧でも靄でもない。視界を遮るただのガスだ。違うかい?」
 恋人は君の問いかけには答えずにそう続けた。
「うん・・・。でも、どうして?」
 君の胸が高鳴っている。まさか、恋人が自分の考えを理解していたとは思わなかったからだ。
 変わったやつだけど、愛している。
 ただそれだけの言葉で満足していたのに。独り言のような君の話をおざなりにでも聞いてくれるだけでいいと思っていたのに。
「俺だって理解しようとしてんだぜ。いくらお前が可愛いからって一方通行ばっかじゃ悲しいからな」
「真彦さん・・・」
「なあ、奈津。俺と――」
 君の心が音を立てる。目の奥がじんと熱くなって、わずかに息が詰まる。
 そして、君は彼の求婚の言葉にそっと頷く。
<< 前の章へ戻る      >> 次の章に進む      ▲ ページトップへ戻る