らんぼ~流 山屋の視点
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       9

 君は夢を見ていた。
 夢の中の君は、恋人の部屋のベッドの上でいまちょうど目覚めたところだ。
 肩にまわされた恋人の腕をそっとはずすと、君はシーツの中に手を入れて下着を探す。パジャマ代わりのTシャツは、枕元にくしゃくしゃになって脱ぎ捨てられている。
 Tシャツと下着をつけると、君はのろのろとベッドから降り立った。目をこすりながらキッチンへ行き、コーヒーメーカーをセットする。君と恋人にとって、コーヒーは飲み物以上の存在だ。これがないと一日が始まらない。
 君はキッチンの床をぺたぺた歩く。フローリングのひんやりとした感じが裸足の足に心地良い。
 恋人の手で乱された髪を軽く撫でつけながら、歯磨きをして顔を洗う。シャワーも浴びたいところだけど、恋人の朝食を作るほうが先だ。君の会社は創業記念日で休みだけど、恋人の会社はそうではない。
 恋人はまだ起きてくる様子がない。君はおろしたてのタオルで顔を拭くと、いい加減に起こさなくちゃと思いきる。もう八時を過ぎている。朝の辛さはわかるけれど、そろそろ起こさないと遅刻させてしまう。
 だけど、君は裸足で歩く感触が心地良くて、フローリングの板目をなぞるように意味もなく歩き続けている。キッチンの隅まで行っては回れ右、恋人の寝てるベッドまで戻っては回れ右。早く恋人を起こさないといけないとは思いながらも、君は歩くのをやめられない。君はそんな自分の行動に可笑しくなって、一人微笑みながらぺたぺたと歩く。
 しばらくすると、恋人の端末からコール音が響いてくる。
 きっと、恋人の会社からだろうと君は思う。いつまでも出社してこない恋人に会社から呼び出しがかかったに違いない。
 君は慌ててベッドに駆け寄ると、恋人を揺する。しかし、君がどんなに頑張っても恋人は起きる気配がない。
「駄目・・・今日、俺、仕事休む」
 返ってくる反応と言えば、地の底から聞こえてくるような呟きだけだ。
「あのねえ――」
 なおも揺すり続ける君に、恋人はくるりと背を向けて答えた。
 仕事に行くとは言うものの、恋人のそれはユニットの中に入り、職場にアクセスするだけだ。毎朝、車で会社に通う君とは大違いである。だけど、それがどんなに楽な方法でも、慣れてしまえば、人は面倒くさがるように出来ているのだろう。
「もう、真彦さんてば、朝に弱いのにも限度があるわ。一体、どういう神経してるのかしら?」
 君は鳴り続けるコールに急かされながら、恋人に悪態をつく。
 控え目な電子音のはずなのに、君には何故かそれがうるさく感じる。鬱陶しくて仕方がない。
「ねえ、真彦さん。お願いだから起きてレスを返してちょうだい。うるさくってたまらない」
 もおっ、真彦さんが起きないと、この音、いつまでも続くんだから――。

 そこで君は本当に目を覚ます。
 現実の世界では、君を呼び出すために端末のコール音が鳴っている。
「あ・・・夢か」
 この部屋で目を覚ますのは、もう幾度も経験しているのにコールで起こされたのは初めてだ。
 君は小さく欠伸をする。
 まだ少し眠い。頭がぼおっとしている。
 完全に覚醒しきっていない思考の中で、コーヒーが欲しいと君は思う。考えてみると、もうずっとコーヒーを口にしていない。目覚める前に、夢の中で淹れたコーヒーを一口でも飲んでおけばよかった、と君は少し口惜しがる。
 凝り性の恋人が行きつけの喫茶店で分けてもらっているオリジナルブレンド。キリマンジャロをベースにした仄かに酸味のあるその味は君の好みにもよく合っていた。
 思えば、彼と初めて出会ったのもその喫茶店でのことだ。カウンターだけの暗く狭い店内には情報端末のたぐいは置いていない。飲食店のほとんどがサイバーカフェのようになっているこの時代に、頑固にコーヒーの味だけを売り物にしているその店を君はとても気に入っていた。端末を通して注文するのではなく、実際に店のマスターに肉声でオーダーする。薄暗い店内では、店主自作の木製パズルをするか、カウンター越しにマスターと会話をするくらいしか暇を潰す手段がない。座る場所によっては本さえ読めない薄暗さだ。だけど、君はそこでぼんやりと時間を潰すのが好きだった。気さくな店主と話をするのも楽しかったが、コンピュータの放つ電磁波とは無縁の穏やかな空間で無為な時間を過ごすことに君は不思議な安らぎを覚えていた。
 そして、いまから、四年前の冬――。
 コートを掛けたスツールにさえコーヒーの香りが染み込んでいるようなその優しい空間で、君は恋人と出会った。
 真彦さんちのコーヒー、飲みたいな・・・。
 そこまで考えて、ようやく事態を把握し始めた君はくすくすと声を潜めて笑う。
 目の前の端末からは、君を呼ぶ無機質な音が続いている。
「わたしってば、すごく単純・・・」
 どうしたの?
「え・・・だって、わたし、本当は自分が呼ばれてるのに、コールの音をうるさいうるさいって、夢の中の真彦さんのせいにしてたんだもん」
 ああ、そういうこと。
「うん。まるで心理学のテキストにそのまま載ってるような夢だった」
 君はそう言って微笑みながら、エンターコードを入力してコール音を止めると、端末のメッセージに目を通した。
 その途端、君の笑顔がふっと翳る。
 由利さんから?
「うん、そう・・・」
 何だって?
「準備ができたって」
 準備って・・・移植手術のかい?
「うん・・・」
 どうしたの? よかったじゃない。やっと、ベッドから解放されるんだよ。嬉しくないの?
「うん。いざとなるとね。・・・心の準備はしてたつもりなんだけど」
 怖いの?
「ううん。怖くはない。由利さんが一生懸命説明してくれたし、手術そのものに対する不安はない。ただ、少し気が進まないだけ」
 どうして? また、山に行けるようになるんだよ。
「うん。わかってる。わたしの悪い癖だよね、つまんないこと考えちゃうの」
 どんなこと?
 君は僕の問いには答えずに、端末の画面をぼんやりと見つめた。オペレータの氏名欄には、浅田由利と出ている。いま、端末の向こうに待機しているのは、由利さんらしい。
 ねえ、考え込んでても仕方ないだろう? こういう問題は専門家に相談してみるのが一番だよ。
「由利さんに? ・・・でも、失礼だよ。由利さんの仕事を非難しているみたいで」
 何か勘違いしてないかい? 由利さんの仕事は単純に移植を奨めることじゃないだろ? 移植を受ける患者の相談に乗って、精神的なサポートをするのが仕事だ。
「それはそうだけど・・・」
 ぐずぐずと迷っていると、由利さんのほうから呼びかけてきた。
 君たちは朝の挨拶を交わして、それから、移植手術のための最終確認をする。
 話をしているうちに由利さんは君の反応の遅さを不審に思ったのだろう、移植を受けることに対して何か躊躇しているのかと訊いてきた。

> ごめんなさい。いざとなると、なかなか踏ん切りがつかなくて・・・。
> 手術が怖いの?
> いいえ。手術自体は怖くありません。全然不安がないって言ったら嘘になるけど、でも、わたしが迷っているのは生体義足についてなんです。
> 義足に?
> うん。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、何だか少し気持ち悪くて・・・。
> どうして? それは確かに・・・医療用に生産されてるプロトタイプの足とはいっても、他の人間の足には違いないわ。だけど、二流のホラー映画みたいに足そのものに意思があるわけでもないし、あなたが寝ているあいだ、好き勝手に動き出すわけでもない。あなたの命令にちゃんと従うのよ。移植されてしまえば、それはもう完全に自分の足なの。奈津子さんの足になるのよ。
> それはわかってますけど・・・。
> いい? 奈津子さんのケースでは、両足とも義足に切り替えなくてはならないでしょ? どうしてもって言うなら、機械義足という方法もあるけど、片足だけならまだしも両方となると、普段の生活に戻るのでさえ大変なことなのよ。一生懸命リハビリをしても、普通に歩けるようになるのに最低でも半年はかかる。努力をすれば、走れるくらいにはなるけれど、完全にもとの運動能力を取り戻すことはまず不可能と考えていい。確かに一昔前には両足とも機械義足のアスリートもいたわ。だけど、それは本人の強靱な精神力と持ち前の運動神経があって初めて可能な奇蹟なの。誰もがそうなれるとは限らない。こう言っちゃ何だけど、奈津子さんには無理だと思う。
> わかってます。だけど・・・やっぱり抵抗あるんです。
> うーん、仕方ないわね。わかったわ。・・・奈津子さんの言う抵抗があるっていう心理、私もよく理解できる。他人の肉体を――それも目に見える場所にあるそれを、自分のものとして受け入れるっていうのは大変なことだわ。実際、相当のストレスになって当然なの。そういう人が多いから、私たちカウンセラーがいるわけだしね。でも、事前に打ち明けてもらえて本当によかった。
> ごめんなさい。我が儘ばっかり言って。
> ううん。それに多分奈津子さんの中には、倫理的な問題に関する抵抗感もあるんだろうと思う。クローン移植が一般に理解されるようになってからも、奈津子さんみたいに自分が当事者になると尻込みする人って結構いるのよ。――仕方ないね。もう少し時間をかけて一緒に考えよう。
> 本当にすみません。由利さんや他のお医者さんたち、わたしの身体のこと、一生懸命考えてくれてるのに。
> いいってば。それが私の仕事だもの。でもね、いま、私、笑ってる。
> え?
> お年寄りには多いけど、奈津子さんの年でそういうこと考えちゃう人って最近は少ないのよ。案外、古風な考え方してるんだなって、そういう意味で笑ってる。あ、馬鹿にはしてないよ。
> はい、わかってます。安心してください。・・・でも、わたしってレトロな考え方してますか?
> うん。少なくとも現代的ではないわね。でも、そういうこと考えちゃうあなたのこと、私は好きよ。クローン移植を考えるとき、倫理的な問題は、絶対におざなりにしちゃいけないことだわ。だけど、いま、奈津子さんは移植を受ける当事者なの。まずは自分のこれからを考えることが大切でしょう?
> うん。
> それとも、前時代的な機械義足でいい?
> それは・・・困ります。
> じゃあ、おとなしく、治療を受けるしかないじゃない。
> ・・・うん。
> なかなか吹っ切れないみたいね。いいわ、じゃあ、現代のようにクローン技術が確立されていなかった時代の移植医療について少しお話ししようか。もちろん、私は過去に行われていたような臓器移植手術に関わるカウンセリングの経験はないわ。そうした手術自体、もう振り返られることのない過去の技術だからね。だけど、移植医療を考える教材として、そうした歴史や当時の倫理観、それからそのような移植におけるインフォームドコンセントの方法論なんかも勉強した。移植カウンセラーになる者の良心というか、まあ、言葉を変えれば必修科目だったわけ。
> うん。
> 少し長くなるけど聞いてね。本格的な移植医療の歴史は二十世紀後半から始まったわ。当時の移植は生体移植や死亡者からの移植が主流だった。だけど、それらには様々な問題があったの。最初に生体移植についてお話ししようね。まあ、生体移植って言っても、移植できる臓器は肝臓と腎臓ぐらいだったんだけど・・・。
> それはどうしてですか?
> 簡単なことよ。その頃は再生能力がある臓器は肝臓だけと考えられていたの。一つの肝臓を右葉と左葉の二つに分けて、その一方を別の人体に移しても、やがて両方とも元の肝臓の大きさまで再生する。それから、腎臓についてはもともと一人の人間につき二つあるでしょう? この場合は移植すると、一つずつになっちゃうけど、それでも一応日常生活くらいなら送れるわ。
> ああ、なるほどね。
> 簡単でしょ。だけど、移植手術そのものは簡単な問題ではなかった。手術の際、移植を受ける患者(レシピエント)だけでなく、臓器提供者(ドナー)にも命の危険がないとは言い切れない。当然、普通は家族から臓器を貰うわけだけど、組織適合性の問題や精神面での問題が移植手術にはつきものだったのね。技術的な問題だけじゃなくて。
> うん。
> テキストにはこういう臨床例が載っていたわ。五十代の女性患者の話。彼女は重い肝機能障害を患っていてね、移植以外に助かる方法がないと診断されたの。家族の中で彼女に適合する人はその人の一人娘だけ。その娘さんはね、母親に肝臓を分けてあげる決断をするんだけど、移植を受ける当の母親がそれを許さなかったの。もういいよ、もういいよ。結婚前の娘の身体に傷をつけてまで生きていたくない。頑として拒否をした。それに対して、娘さんは泣きながら怒ったの。どうしてもお母さんに生きていて欲しい。まだまだ一緒に暮らしたいし、あなたに教えて欲しいことだってまだたくさん残ってる。お母さんが助かるためだったら、傷跡の一つや二つどうってことない。なのに、どうして私の気持ちをわかってくれないのか。そう言って、涙を流して怒ったの。――泣きながら怒るってさ、言葉にすればそれまでだけど、ものすごい感情だと思わない?
> うん。自分がそういう立場になってみないとわからないけど、きっと身体が張り裂かれそうな感じだろうね。愛してあげたい、命を救いたいって思っているのに、相手からそれを拒否される。抱きしめてあげたいって願っているのに腕の間からすり抜けてしまう。それも相手が自分を思いやってくれるばかりに。・・・駄目だわ。言葉にしたら全部薄っぺらく聞こえちゃう。
> そうね。言葉ではきっと言い表せない。他にもね、妹を救うためにドナーになる決断をした女性の例も載ってたわ。彼女はすでに結婚していてね、子供はまだいなかったんだけど、最愛の夫と暮らしていた。その夫がね、妻にこう言ったの。どうしても移植は認められない、お前を危険にさらす真似は出来ないって。生活をともにしている夫としてではなく、お前を愛する一人の男として、それだけは許せない。頼むから思い直してくれ。
> ああ・・・それも泣きながら怒ってるんだろうな。
> うん。そうかも知れないね。何にせよ、彼の究極の言葉には違いないよね。妻に妹さんを見捨ててくれって言ってるのと同じことだもの。自分勝手な薄情者だって思われても仕方ない言葉だわ。だけど、彼は正直に妻への想いを語った。きっと血を吐くような思いで言ったと思う。
> 当事者だけの問題じゃなかったんですね。
> そうよ。長年、患者が身体を患っていて最終的に移植手術が必要と診断されるケースであれば、ドナーとなる人やその家族にもある程度心の準備が出来ているかも知れない。そうした時間的余裕なんて、本当は関係ないんだろうけど・・・だけど、肝臓はね、俗に「沈黙の臓器」とも呼ばれてて、相当に深刻な症状になるまで当人に自覚されない場合が多いの。例えば、劇症肝炎なんかだと自覚症状を覚えてから移植で救うことの出来るタイムリミットまで三日もないなんてこともあるのよ。昨日まで健康に暮らしていた人が意識のないまま病室に横たわり、別の部屋では、次の休日は何して過ごそうかと楽しい考えをめぐらせていた患者の家族が突然の決断を迫られる。移植手術に同意するのか、しないのか。自分の内臓を与えるのか、拒むのか。家族を救うのか、見捨てるのか。患者やドナーの家族の気持ち。ドナーとなる人の気持ち。今まさに死の淵に立っている患者さんの気持ち。それぞれの人を結びつけている思い出という名の過去と、一人一人が心に抱く希望に満ちているはずの未来。様々な人の、様々な思いを天秤に掛けて、たったの三日でひとつの形にしなければいけない。本当の答えなんて、どこにもないのに。
> うん・・・。
> 言葉にならないよね。逆に時間的な余裕が苦しみに繋がるなんてこともあるわ。弟をついに救えなかったお兄さんの話も教材にあった。その人は弟さんが死んでから何年もの間、自分を責め続けていたの。臓器提供に踏み切る勇気が持てなかったことをずっと悔やんでいた。最初に話したように、臓器の一部を切り取ることは、ドナーの身体にも相当の負担になる。手術が無事に終わったとしても、それで寿命が一〇年縮むんじゃないか、もう以前のような体力は戻らないんじゃないかって、いろんな考えが浮かんでくる。提供することに不安を感じるのは当然だわ。誰もそのお兄さんを責めることなんて出来やしないし、勇気だとかそういう言葉で考えるべき問題でもない。だけど、お兄さんはずっと自分を責め続けていた。そんなふうに命を分け与える生体移植は、家族にとって生きている限り永遠に続く問題だったの。
> それでも大事な人を救うために手術を受けてたんですね。わたしだったら、出来るかなあ・・・。
> そうね。それは私もそう思う。移植行為に対して偏見はないし、当時はそれが最良の方法だったんだって信じてる。だけど、臓器を提供する立場になったら相当に苦しむと思うわ。もちろん、受ける立場になっても。
> 由利さんでも?
> 当たり前よ。幸い今の医療じゃ、そういうことは起きないけど。
> それで、その時代は移植さえすれば確実に助かってたんですか?
> ううん。臓器発生のメカニズムさえ、満足にわかってなかった時代なのよ。移植をしても確実に助かるという保証はなかった。
> そんな・・・。
> 悲しいけど、それが当時の医療の限界だったのよ。最初に話した一人娘の肝臓をもらったお母さんも一月後に亡くなったと書かれていたわ。――成人の生体肝移植の場合、移植後一年間の生存確率はせいぜい八〇パーセントってところだったの。
> たったの?
> そう。たったの、八〇パーセントよ。家族みんながそれぞれ命を懸けた決断をして移植手術に臨んだのに、一〇人に一人か二人が一年間も生きられないの。たとえ生存確率が九九パーセントでも「たったの」って言わなきゃいけないよね。助からないなんて、残酷すぎる。
> そうですね。わたしだったら、神様を呪いたくなる・・・。
> でしょう?
> うん。話を聞いただけでもやりきれないのに、実際に治療にたずさわっていたお医者さんたちはどんなに辛かっただろうって思う。
> そうね。私にも想像がつかないな。ドナーに対するインフォームドコンセントから解放された現代の移植医療に関わってる私たちでさえ、移植を受ける患者さんに接しているといろいろ辛いことがあるもの。一〇〇パーセントに限りなく近い確率で助けることが出来る私たちでさえそうなんだから、移植される当事者だけじゃなく、ドナーやその家族にも辛い決断を迫らなきゃならなかった当時のお医者さんや移植コーディネーターの苦しみは本当に想像もつかない。ドナーとなった人を含めて家族のみんなが、身体を切り裂いて自分の肉体の一部を与えてでも生きていて欲しいと願う患者さんの命なのに、万が一でも救えなかったとしたら・・・そう、考えただけでも怖くなるわ。
> うん・・・一体、どんなふうに言葉を掛けてたんだろう?
> それは今とそんなに変わらないと思うな。きっと、マニュアル通りの言葉よ。穴だらけのマニュアル通りのね。
> 穴だらけ・・・ですか。
> 当然よ。答えの出ない問題だもの。だけど、マニュアルに頼らずにやっていくことなんて、少なくとも私には出来ない。それがどんなに穴だらけのマニュアルでも。
> 由利さんて、優しいですね。
> 違う。ただ、弱いだけよ。・・・だけど、強くなりたいとは思わない。強くならなきゃやっていけないんだけど、強くなったらおしまいだと思う。
> 強くなったらおしまいか・・・その気持ち、何となくわかるなあ。
> ■
> ・・・由利さん? どうかしたんですか?
> 話がそれてることに気付いたの。奈津子さんてば、案外聞き上手ね。
> あ、ごめんなさい。でも、照れなくてもいいのに。
> 立場を守りましょうって言ってるの。奈津子さんと、それからあなたにつまんないことを愚痴ってる自分自身に。――さあ、話を続けるわよ。

 由利さんはそこでいったん言葉を切った。
 会話が進むにつれて、よどみなくスクロールしていた画面が数秒間止まった。
 ――コンピュータでも沈黙が表現できるんだ。
 まるでハングアップしたかのように停止した画面を見つめたまま、君はぼんやりとそう思う。
 優しい沈黙。
 言葉に頼らぬ通信手段。
 それは、君に一つの光景を想起させる。
 モニタルームに一人、ぽつんと座っている由利さんの姿。小指のささくれを気にするようにじっと自分の指を見つめて座る彼女を想い、君は少しせつなくなる。
 カウンセラーとして強くありたいと願い、勝気で理性派を気取っている彼女の中の優しさと脆さ。隠そうにも隠しきれずにいる彼女の裸の心を君は一瞬垣間見る。
 どうして、彼女は強くあろうとするのだろう?
 どうして、彼女は強くなろうとしないのだろう?
 強靱な精神の希求とその放棄。
 取り乱したままの患者に代わり、現実を見据え、ときには悲愴な決断を下さねばならぬ彼女の、あまりにも重いその責任がそうした複雑な感情を生むのだろう。
 わたしに足があれば――。
 君は思う。
 いますぐにでも、彼女のことを抱きしめてあげることができるのに。
 そう思った瞬間、君の心の中で何かがことりと音をたてた。溶けかかった氷がそのままの姿勢を保てずに少しだけ横に転がったような――そんな音を君は自分の裡に聞いていた。
 やはり、人は移動しなければならない。
 電子の身体に自らを託し、細いケーブルの中をくぐり抜けて、デジタル信号を届けるよりも、自分の足で自身の肉体を運ばなければならない。
 大好きな人のもとに駆けつけて、無言の抱擁で包み込んであげるため。身体に宿る自分の心を愛する人に運ぶため。

> 由利さん?
> え? ――ああ、ごめんね。少し論点を整理してた。どんなふうに話してあげようかなあって。まだまだ話は続くわよ。準備は出来てる?
> はい。いつでも、どうぞ。

 論点を整理してた、か・・・。
 そう言って強がって見せる由利さんにレスを返しながら、君はますます彼女のことが好きになる。

> そんなふうに生体移植だと、移植を受ける者と臓器を提供する者との関係っていうか、心の葛藤なんかが問題になっていたわ。さて、次は脳死移植のお話をするわよ。脳死患者や死者からの臓器移植においては、肝臓や腎臓だけじゃなくて、肺や心臓とか、膵臓や腸などのほとんどの臓器が移植の対象として認識されるようになる。臓器移植の中では比較的歴史の古い角膜移植っていうのもそう。これについてはわかるよね。その当時、人体に一つしかない臓器や、二つあるんだけどその一方でも取り出したら移植後のドナーの生活に大きな影響を及ぼすような臓器は、脳死患者や死者から取り出すしか方法がなかったわけよ。ヒトの胚性幹(ES)細胞は発見されていたけど、それを使って、立体的構造を持った各種の臓器にまで成長させる技術がなかった。・・・発生に関するもう一つの重要な要因(ファクター)である形態形成場(モルフォジェネティック・フィールド)のメカニズムが解明されてなかったからね。人工的な生体臓器なんてまだまだ夢物語の時代だった。――ねえ、それがどういうことを意味しているか、奈津子さん、わかる?
> え? 何がですか?
> 心臓のように生体移植では得ることの出来ない臓器を、生きるために必要としている患者さんが置かれていた立場。
> あ・・・。
> わかったみたいだけど、言葉にならない? そうね、ものすごいことだもの。・・・つまり、その患者さんは誰か他の人が死ぬのを待っている立場にあったということだよね。
> うん。よほど自分勝手な人なら別だけど、普通の人だったらすごく苦しむと思う。
> ・・・そうかな? ほとんどすべての患者さんが苦しむと思うわよ。普段考える機会なんてない命の難問に直面している人がそんなに自分勝手になれるって、わたしには思えないんだけど。
> あ・・・そうですね。ごめんなさい。
> ふふっ。私に謝る必要なんてないのよ。そうしたことが奈津子さんの中の移植に対する考え方の礎になってくれればそれでいいの。そういうふうに脳死患者や死者からの移植についても、患者さんは、ドナーとなる相手の家族のことだとか、亡くなった人から分けてもらう命の意味や自分の中の倫理観に向き合わなければならなかったのよ。命を懸けた決断をしなければならないこと。そのことは生体移植と何ら変わらない。
> はい。
> じゃあ、わかったみたいだから、話を進めるね。脳死患者からの移植は、■
> 割り込んでごめんなさい。まだ、わからないところがあるんです。質問しても良いですか?
> うん。どんなこと?
> あのう・・・脳死患者ってどういう意味なんですか? 脳死した人は「患者」じゃなくて「死者」でしょう? なのに、由利さんは最初、「脳死患者や死者」と区別して言ったわ。
> ああ、そうか。ごめんね。奈津子さんは現代人だから、そういう疑問を抱いて当然か・・・。今では脳死だけが人の死だよね。心臓やその他の臓器が破壊されても移植で救うことが出来るから。
> うん。
> だけど、二十世紀の後半までは心臓死だけが人の死だった。「心臓死」って言葉も、奈津子さんには馴染みの薄い言葉だろうから簡単に解説しとこうね。医療技術の進んでいなかった昔は、脳が死滅するとほぼ同時に身体の全機能が停止してたの。それが顕著に現れるのが心臓でしょ? 拍動が止まるわけだからね。よって、古来から人間は心臓の機能の不可逆的な停止をもって、人の死を判断してたわけ。ハートのマークからもそのことがわかるわ。ハートは心臓と同時に心や愛情をシンボリックに表現したものだよね。それは人間を象徴する心や愛といった概念が心臓に宿っていたという思想の現れよ。つまり、昔は心臓が命の中枢と考えられていたのね。それが、医療技術の進歩で脳が死滅しても、ある程度の期間は身体機能を維持させることが出来るようになった。つまり、医学の進歩が、脳死という概念を生んだの。それに対して、従来の「死」は「心臓死」という概念に変化した。
> ああ。そうなんですか。・・・んと、そうなると、その逆のパターンもあったんですか? 心臓の機能が停止してから、後に脳死に至るっていうケース。
> もちろん。そっちの方が多いくらいよ。
> わ、じゃあ、脳は生きてるのに「死者」って呼ばれてたんですか。怖いなあ・・・。
> だとしても、ほんの短い時間だよ。
> でも、個人にとって、時間は相対的なものでしょう? そういう状況下だと、本当に意識がなくなるまで、すごく長く感じるんじゃないかなあ?
> それはあるかもね。・・・中世のフランスでのことだけど、ギロチンで首を切り落とされたあとも、受刑者はしばらくの間、まばたきをしていたって記録も残ってるから。
> わ・・・。そんな話、止めてください。
> ああ、ごめんね。――奈津子さんにはちょっと刺激が強すぎたかしら?
> ちょっとどころじゃありません。
> うふふ。私は結構平気なんだけどなあ。
> うーん。由利さんのこと、わかんなくなってきたわ。
> 奈津子さんより、血を見ることに慣れてるってだけよ。命はとても大切なものって信念は持ってるけど、人の怪我だとか、人の死に対して、おろおろしてたら気が持たないでしょう? それが患者さんの命を危険にさらすことにも繋がるしね。だから、グロテスクなシーンに対しては、職業上、精神的なフィルターがかかるわけ。
> なるほど。人間は慣れることの出来る動物だってことですね。
> 「人間は」じゃなくて「人間も」よ。環境に対して順応性を持ったものが生命です。――さて、そんなわけで、脳死という概念が生まれてからも、しばらくのあいだは脳死患者からの移植は行われていなかったんだけど、一九九〇年代の後半になって日本でもそれが認められるようになる。法的に保証されるのね。でも、その法律が施行されてから、初めて行われた脳死移植まで一年以上の時間がかかったの。そのことからも一般の人々のあいだに脳死を人の死と認められない風潮が根強く残ってたことがわかるでしょう?
> うん。現代(いま)から考えたら信じられないことだけど。
> そうかな? たしかに私は立場上、脳死は人の死ですって言うけど、それが一般論として人々の中にあるのはあんまりいただけないなあ・・・。
> え? そうなんですか?
> 奈津子さんにしてもそうだと思う。それが常識であるという教育を受けてるから気付かないだけで。
> わたしが、ですか?
> そう。ちょっと考えてみてごらん。脳死だけが人の死なのか。
> うーん。・・・よくわかりませんけど。
> それは奈津子さんが「死」というものを生物学的に考えているからよ。人の死を単純に生命現象の終焉として捉えることは、この場合意味がないの。何故なら、私たちは自分の死を自覚することができないから。「一人称の死」というのは概念としては存在しても、実際に経験することは不可能でしょ。だから、私たちが本当の意味で経験することのできる「死」とは、誰か他の人の死――つまり、奈津子さんの知っている人間の死か、あるいは奈津子さんとは何の関係もないどこかの誰かの死だけなのよ。言葉を変えれば、「二人称の死」と「三人称の死」。あなたが実際に現世で対面する死とは、その二種類しかありえない。・・・そうね、例えば、あなたの大切な彼氏の死を考えてみて。あんまり考えたくないと思うけど。

 由利さんの言うとおり、恋人の死について考えることはあまり気分のいいものではなかった。
 けれど、君は思わず笑みを漏らす。
 どうしたの?
「え? だって、殺されちゃったり、女の子にされちゃったり、真彦さんも大変だなあって思って」
 不能者にされちゃったりね。可笑しいのはわかるけど、でも、不謹慎だよ。
「わかってます。あなたはわたしであると同時に真彦さんだものね。あんまりいい気分はしないよね」
 別にそうは思ってないけどさ。
「ふうん。本当にそうかしら?」
 僕にそう微笑みながら、君はゆっくりと思考の中に沈んでいった。
 生物学的に考えるな、という由利さんの言葉。
「二人称の死」と「三人称の死」。
 それらの言葉の意味を考えながら、君は恋人の死を想像してみる。
 恋人の亡骸にしがみついて泣く自分。
 そのとき、わたしは彼にどんな言葉を掛けるだろう?
 死なないで。
 お願いだから、息をして。
 もう一度、わたしに笑って見せて。
 そして、わたしを優しく抱いて。
 心に浮かぶ言葉は、すべて彼に対する願望だ。
 なになにして欲しいという願いだ。
 だけど、その願いは絶対にかなわない。どんなに神に祈っても、どんなに医術にすがっても、彼が再び愛を囁くことはない。
 何故なら、彼は死んでしまったのだから。
 揺らぐことなき絶対的な死――生物学的な彼の死を最終的に思い知らされたとき、君はきっと叫ぶだろう。愛する人の不可逆的な喪失に、涙を流しながら天を仰いで叫ぶだろう。
 信じない!
 認めない!
 それでも、彼は生きている!
 たぶん、わたしは――
 君は思う。
 ――現実の死を否定し、幻想の生を肯定する。
 幻想の中に今も生きる君の恋人。
 だけど、それを幻想と呼ぶなら、この世のすべてのものは幻想だ。現実なんて存在しない。いや、仮に大多数の人間が特定の事象を現実だと認めたところで、その現実にどれほどの価値があるというのか。世界を認識する個々の意識にとって、現実という概念は固有のものだ。人の数だけ思想があり、人の数だけ現実がある。わたしにとっての現実(リアル)、それはリアルな幻想と同義だ。

「そっか・・・」
 わかったのかい?
「うん、昨日、倉橋さんが教えてくれた」
 そうだっけ?
「うん。みんな、同じことなんだと思う」

> 由利さん?
> ずいぶん、早いじゃない。降参したの?
> ううん。わかりました。わたしも由利さんと同じ意見。脳死は人の死じゃないわ。
> あらあら。断定的に言っちゃ駄目よ。
> でも、由利さんも本心では脳死を人の死とは考えてないんでしょう? 立場がそんなに大切ですか?
> 違う。脳死を人の死ではないと思うことは構わない。だけど、それを普遍的な概念として決めつけるのは少し困りものだと言ってるの。あなたにとっての死とは脳死じゃない。それだけでいいのよ。奈津子さんさえ、そう思っていれば、それだけでいいの。
> ・・・ごめんなさい。何だか興奮しちゃって。
> ううん。謝るのは私の方よ。彼氏の死を材料にしてそうした考えを導いたことに問題がある。だけど、わかりやすかったでしょう?
> うん。
> 私が何を言いたかったのかというとね、たしかに生物学的に見たときの死は個体の生命活動の停止と表現して間違いないし、意識や自我がヒトの本体と考えられている現代、その消滅――すなわち、脳死こそが人の死であるという思想は決して誤りではない。だけど、生きている人間から見た死という概念は、それぞれの個人の中にあって当然だってことなの。さっき、奈津子さんは脳死は人の死ではないと言ったよね。でも、第三者にとってみれば、脳死は間違いなく人の死なの。同じように、心臓死こそが人の死だという人もいれば、荼毘に付されたときに初めて人が亡くなったと認める人もいる。その人が考えるのならば、墓地の中に納められても、なお、死者は生者なのよ。
> 死者は生者か・・・。そうですね。わたし、せっかく見つけた答えを見失うところでした。
> そうね。感情を無視して考えることは人が人であることを見失う危険を孕んでるけど、感情的に思考することも全く同じ危険を孕んでいるのよ。そうやって、人間はすぐ思考の袋小路に入ってしまう。お互い、気を付けなきゃね。――じゃあ、いったん、まとめるよ。いま、奈津子さんに考えてもらったように、死者からの移植においては、死の意味を主観と客観の双方から考えることが大切だったわけ。脳死した人は間違いなく死者だから、臓器を取り出しても構わないのか? 彼を愛する人にとって、彼は本当に死者なのか? 移植を受ける患者さんや遺族の人たちはそうした問題に向き合わなければならなかった。奈津子さんが理解したように、生と死の境界は個人の認識によって異なる。だから、ドナーが死者であっても生者であっても問題の根本は変わらないの。つまり、脳死、心臓死に関わらず、死者からの移植も生体移植と何ら変わらない問題を含んでいたということね。
> うん。納得しました。
> よろしい。優秀な生徒だわ。ま、今の時代から脳死問題を考えるには、今まで話したようなことで十分なんだけどね。もうひとつ、当時の脳死に関する問題点をあげておけば、昔は脳死状態を判定する手段があまりにもお粗末だったってこともあるの。全脳の器質的な死を確認するのに、外界からの刺激に対する反応現象を観察することでしか行えなかったのよ。だから、たくさんの誤認があった。脳幹の一部が生きていることによって起こるラザロ徴候が脳死と判定された多くの患者に確認されていたし、移植医療に従事していた医療技術者も実際に臓器を取り出すときは死者と判断した脳死体に麻酔をかけていたという衝撃的な事実もある。
> ラザロ徴候って?
> 新約聖書の中でキリストによって死から蘇らされた人物――ラザロの名前をとって名付けられた現象でね。簡単に言うと、刺激に対する反射だけでは説明できないような複雑な動作を脳死患者が見せること。両手をあげて胸の前で組むような――まるでお祈りをするような格好をするときもあったらしいわ。
> それでも脳死と判定されてたんですか?
> そうよ。まあ、そうしたケースでも脳死と判定された患者さん本人には明確な意識はなかったはずだけど――、でも、全脳死こそが人間の死であるという立場をとっていた私たちの国では、脳死という概念を導入するにはあまりにも時期尚早だったと私も思う。
> うん。何故、そんなに背伸びをしてまで新しい死の形を模索していたんだろう・・・。
> たぶん、走り出したかった――のでしょうね。日本の移植医療の背景には歴史的にもいろいろ難しい事情があったからね。さて、そろそろ、昔話はおしまいにしましょう。奈津子さんのケースの検証が本題なんだから。
> はい。
> まず、最初に言葉の確認をするわよ。一般的には「クローン移植」って一言で括ってるけど、実際はクローン移植とクローン生体移植の二つを総称してそう呼んでるよね。そのことは知ってる?
> はい。大体のことは知ってます。クローン移植は自分の細胞を脱分化させて、それでもって自分の身体の部品を作って移植することでしょう?
> そう。角膜とか皮膚だとか、そういう小さな部品に使用される移植技術のことをそう呼ぶわね。じゃあ、後者は?
> クローン生体移植の方は、わたしの足のように身体の大きな部品を作る際、培養に要する時間的なロスを避けるための技術です。いくつかに規格化された培養済みのクローン生体(プロトタイプ)を使って破損した組織を補う移植方法。
> うん。それだけわかっていれば十分ね。じゃあ、あんまり時間がないから早速本題に入りましょう。狭義のクローン移植についての倫理的な問題は、クローン生体移植を考えるときのそれにほとんどが含まれてるから割愛する。だから、これから、クローン移植と言ったら、クローン生体移植のことだと思ってね。
> はい。
> クローン移植には、前提としてプロトタイプという素材が必要不可欠だよね。でも、素材と言ってもプロトタイプは間違いなく一つの生命体なわけ。もちろん、発達初期の神経胚の段階で将来脳が形成されないよう処理されているから、意識や自我はないけどね。
> うん。
> そういうふうに現代の移植医療を支えている人為による生命の創造を考えたとき、一番問題になってくるのが、生命倫理の問題。だけど、ここでそれを難しく掘り下げるつもりはないし、倫理なんてもともとそんなに難しいものではないと私は思ってる。薄汚れた利害や時代遅れの概念が絡むから面倒になってるだけで、その実は子供でもわかる簡単なことだわ。
> 簡単・・・ですか?
> そうよ。全然、難しくなんてない。生命倫理の根幹は「命を大切にする」ってこと。言葉を変えて言えば、「生命と人の本体である心に対して敬意を払う」こと。その一点に尽きるわ。もちろん、新しい技術を臨床に応用したり実験室の外に出したりすることは、地球環境や生命の将来に予想外の影響を及ぼす可能性がある。だから、それに対して慎重な姿勢を保つことは重要よ。だけど、あくまでも本筋は「命を大切にする」ってこと。今も昔も、それを忘れて、余計な議論をしている人が多すぎる。知識はね、時として人を呪縛するの。特に専門的な知識を身につけると、人は自我を満足させるために必要のないところでもそれを表に出そうとする。知識によって自己を主張するんだね。よくシンポジウムなんかでさ、「専門家としての立場」から意見を述べたり、それを促したりする人がいるでしょう? あの手の前置きをした後の意見って、何だかすごく意固地になってるように聞こえない?
> うん。子供の意見に聞こえるようなときがありますね。視野が狭いっていうか、全体を見渡せてないなって感じがする。
> でしょ? 奈津子さんとは話が合うわ。「専門家の立場から」っていうのは、「狭い視野から」と言ってるのと同じ意味よ。専門的な知に裏付けられた意見を述べるときでも、「人として」の立場を忘れちゃいけない。専門家であると同時に人としての立場からの意見。何でもそうだけど、特に生命倫理を語るときはそれが重要になってくる。――いくつか例を挙げようか? 例えば・・・そうね、もう一回、解答の出てる過去の事例を検証した方がわかりやすいかな? 今では、ほとんど全ての手術がマニュピレーターを使用して行われてるよね。微小な血管や神経接合など現代医療に必要とされる細かな作業は生身の人間の手では無理だし、何より切開する範囲が少なくて済むから患者さんの体力的負担や術後の痛みを軽減できる。患者さんだけが手術室に入り、医師やその他のスタッフは別室からユニットを通して、マニュピレーターの操作を行う。これが現代の手術の様子。だけど、昔はロボット工学がそれほど発達していなかったから、どんな難手術も人間の手で行っていたの。それが二十一世紀初頭になって、マニュピレーターを使用した手術が少しずつ一般に普及してきた。そのとき、当時の人々はそうした未来の医療に不安を覚えたの。治療の際、医師の顔が見えない医療に対して、不信感や不安を感じていた。そうした心理を非難するつもりはないけれど、そんなものは気の持ちようで解決できることよ。問題は医師と患者との信頼関係(ラポール)じゃなくて、お互いが持っている「命の重さ」に対する信頼なの。そのことを忘れずにいることが一番大切なわけ。医療スタッフや患者さんがそれぞれの立場で命の意味をしっかりと見極めて、そこから生まれる共通の普遍的な信念に従って行動すれば、顔が見えないことなんて大した問題じゃなくなるわ。そのことを忘れなければ、お互いに離れていたって、信頼関係を築くことくらい出来るはずよ。立場は違えど病気や怪我に一緒に立ち向かってゆく・・・古い言葉で言えば、戦友としての信頼関係みたいなものは必ず生まれる。
> わたしと由利さんみたいに?
> 照れ臭くなるような混ぜっ返しはしないの。そう言ってくれるのは嬉しいけど、なごんじゃうでしょう?
> でも、こういうのが信頼関係ですよね。
> ったく、もう・・・否定はしないけど、言葉を変えれば馴れ合いです。わかった?
> はーい。
> じゃあ、話を続けるわよ。マニュピレーターを使った手術など、先進医療の倫理的問題は二〇五三年から二年間に渡って行われた医療倫理世界会議で一応の国際基準が合意に至った。宗教的な背景とかいろんな事情で紛糾はしたけど、かなり細かな点までガイドラインが示されたわ。そういうふうに、心の時代と言われた二十一世紀中期には、生命倫理に関する問題に対して、正解に近い思想が成立したの。うーん・・・「正解」と言うのは可笑しいね。「健全な解答」という表現に訂正する。だけど、せっかく産声をあげた健全な思想は、次第に忘れ去られ、いつのまにかうやむやになってしまう。
> え? でも、マニュピレーターとかの医療はすでに一般に受け入れられてるじゃないですか?
> 確かにそうよ。だけど、私に言わせれば、そうした医学の普及に隠れているのは健全な思想じゃないわ。昔とは全く逆の「人の顔が見えない方がいい」という思想よ。こうした考えは表面的には全く正反対に見えるけど、実際は機械の手を嫌がった二十一世紀初頭の思想と全く同じ。極めて個人的な感情からくる不健全な理由。つまり、医療本来の目的を見失った幼稚な理由だわ。これは思うに、奈津子さんの嫌いなバーチャル文化の影響ね。そのせいでせっかく芽生えた倫理的に健全な思想が普及する前に、一般レベルにおいて不健全な納得が行われた。マニュピレーターによる手術に対する信頼や安全性を考慮した納得じゃなくて、現代人は単純に機械の手の方を好むの。マニュピレーターを介さずに実際に生身の人間の手が自分の身体の中を触るなんて気持ち悪いって思想だね。どう? 一見、現代風の考え方だけど、ロボットの手を嫌がった大昔の思想とその根底にあるものは同じでしょう?
> うーん。そう言えば、そうですね。
> 納得した? 私は決してバーチャルを批判してるわけじゃない。だけど、現実の世界に生きていても、仮想の世界に生きていても、人として生きるうえで大切な根本的な問題をおざなりにしちゃいけないって言ってるだけ。幻惑されるなって。――バーチャルは確かに人の役に立つ技術よ。人を安んじる可能性を持っている。バーチャル技術がなかった時代は、寝たきりになった人が生の意味について悩んでいた。「尊厳死」なんていう言葉もあったくらい。バーチャルはそれを見事に克服したわ。脳の機能さえしっかりしていれば、どんな人でも行きたいところに行けるし、世界中の人と会話が出来て、ほとんどの娯楽を楽しめるようになるからね。
> 環境にも優しいし?
> そう。・・・だけど、バーチャル技術の創成期にも人間的でないという非難があがったの。人間って、変だよね。自分たちが求めたテクノロジーに対して、一度は過去の価値観を当てはめて批判しないと気が済まない。悪い部分だけを取り上げて、存在そのものを否定しようとする。自分たちが変わろうとしないで。
> うん。・・・でも、わたしはバーチャルってあんまし好きくないけど。
> 好きじゃないって言うのはいいのよ。物事の本質を見失って、そう言うのじゃなければね。奈津子さんの中のこだわりは個人が個人としてあるために必要なことだわ。だけど、それを一般論にまで広げちゃいけない。ただ、それだけのことよ。
> はい。
> じゃあ、もうひとつだけ、昔話をして終わろうね。今までは、命を救う医療について話をしたけど、今度は命を生み出す医療。「生み出す」と言うのは語弊があるかな? そうね、命を生み出すことによって、人の心や命を救う医療と言い直す。
> 由利さんてすごく言葉を選びますね。そんなに丁寧に言わなくても、わたし、誤解なんてしませんよ。
> ありがと。でも、私のポリシーだから。なるべく正確に伝えたいっていうか、言葉という通信手段に対する不信感・・・かな? だけど、私はこれで商売をしてるでしょう。だから、そのクオリティに気を使ってるだけよ。
> はい。
> さて、じゃあ、そうした医療の例として、人工受精の問題を取り上げてみよう。人工受精の歴史は一九七八年に始まったわ。当時は「試験管(テストチューブ)ベビー」なんて言葉が流行ったくらいセンセーショナルな出来事だったんだけど、二十年もしないうちに人工受精の技術は一般的になる。二十世紀が終了した時点で日本国内だけでも実に三万人を越える体外受精児がいたのよ。それだけ、そうした技術が求められていたということね。だけど、その時代にも不思議な議論をしてた人たちがたくさんいた。――人工受精なんて現代じゃ常識になってるし、実際、そっちの方が多いくらいなのに。
> うん。わたしも自然受精児(ナチュラル)じゃないし。
> ああ・・・なるほどね。だから、IQ、高いんだ。でも、性格からして人工受精児(アーティフィシャル)じゃないと思ってたんだけどな。
> 驚きました?
> ううん。国民の七割がそうなんだから、別に驚きはしなかったけど・・・だけど、ちょっぴり意外だった。統計的に体外受精で生まれた人はバーチャル志向が高いからね。
> そうなんですか? わたし、だから、逆に自然に憧れるんだと思ってたけど・・・。
> なるほど。人間って不思議な思考をするね。受精の仕方が違っても生まれてくるのは同じ人間なのに。さて、ちょっと話がずれたわね。元に戻すよ。人工受精に対しても、当時はいろいろ倫理的な議論があったってところから。
> うん。
> まず、人為による受精は是か否か。二〇世紀の後半には、すでにこれらの技術は一応、是とされてたわ。子供を欲しがる不妊症の患者さんにとって、人工受精の技術は大きな光明となる。子宮内膜症のように不妊の原因が子宮にある場合だったら、人為的に受精処理を行い、受精が確認された後にその受精卵を患者さんの子宮に戻すと上手く妊娠することがあるからね。
> ことがある? それは確実な技術じゃなかったってことですか?
> そう。人工受精と言っても、当時の技術では出産に至る成功率は約二割くらいだったのよ。現代行われている人工受精のように、形態形成場構造を持った磁場でサポートされていない器具内での受精処理は上手くいかない場合が多いの。顕微受精のように直接卵子に精子を注入しても、受精するかどうかは、まさに神のみぞ知るといったところだったのね。上手く受精して卵を胎内に戻しても、今度はちゃんと子宮に着床するかどうかという問題が待っている。そんなふうに当時の医学では、人工受精から出産に至るまで、人間の手の届かないところにあるいくつものハードルを乗り越えなければならなかったわけ。
> うーん。何だか可哀想。
> そうね。妊娠できないことはない、だけど、その確率は非常に低い。すごく残酷なことだよね。自分たち夫婦の卵子や精子、そして命の揺りかごである子宮。言葉は悪いけど、そうしたものの性能によっても成功率は大きく左右される。そして、不妊に苦しむ夫婦のそれは、もともと通常の人たちのそれより性能的に劣るわけ。だけど、そんな不利な条件の下でも、患者さんたちは最後まであきらめなかった。何度も何度も、人によっては、二十回を越えて人工受精を受けていた。これは大変なことよ。長い間投与されるホルモン剤の副作用の問題もあるし、当時はそうした医療には保険が利かなかったから多額の経済的負担も強いられる。人工受精一回につき、当時のお金で約五〇万円、現在の貨幣価値に換算すると八〇万円以上の費用がかかっていたの。それでも、ドナー卵子や代理母制度が認められていなかった当時の日本ではそうするしか方法がなかったのね。欧米では人工受精を数度試みて結果が出なかった場合はドナー卵子や代理母の起用を医師が奨めていたみたいだけど、日本ではそうした方法が倫理的に認められてなかった。子供が欲しいと願う患者さんの気持ちをろくに考えもしないつまらない規制が横行していた。
> 何だか信じられない・・・。
> 私たちから見ればそうだけど、当時はそうした思想が幅を利かせていたのよ。――今でもそんなに変わらないけど、要するに当時の日本っていう国は思想的観点から見れば圧倒的な後進国だったのね。古い観念にとらわれてばかりいて、新たに出現した事象に対して見極めるべき物事の本質を忘れたまま議論してしまうような精神的に未熟な国だった。もしかしたら、もともと物事の本質を知らない国だったのかも知れない。新しい思想を生むのに必要な確固たる基盤となる宗教という名の思想がなかったから。だから、臓器移植だとか人工受精について日本では認められないケースは、患者さんが高額の負担をして海外の医療制度に独自の道を見出していたの。おかしいと思わない? 医療に地域格差があってはいけないとか言って、国内の医療施設の情報化を高いお金を掛けて進めておきながら、一方では国際的な医療の地域格差についてはほとんど野放しでいたなんて。命にとって何が一番大切なのか、きちんと筋道を考えて議論を重ねていけば解決できるようなことなのに。最新鋭の設備にお金を掛けることはしても、思想を整備するための努力は何もしない。豊かな生活に幻惑されてるから、自分たちが思想的な後進国だということなんて考えもつかない。日毎に発達する医療技術に対して、停滞したままの倫理。子供を欲しがる夫婦にとって、他人の倫理なんて関係ないわ。それしか方法がないのだったら、ドナー卵子を使った人工受精だって、神様の与えてくれた子供を作る方法の一つでしょう? たしかにドナー卵子を使って生まれた子供は、母親と遺伝子的に繋がりがない。そのうえ、代理母まで使うと生物的にも繋がりがなくなってしまう。でも、だからと言って、それがその夫婦の子供じゃないなんて思想はおかしいわ。当時のそうした思想を肯定すれば、古くから認められていた養子縁組の制度を否定しなければならなくなる。
> たしかに片手落ちですよね。わたし、いまの時代に生まれてて良かった。そんなこと知ってたら、自分の国を嫌いになっちゃうもの。
> そうね。だけど、先進技術を積極的に導入すると同時に思想的な整備を推進していた当時のアメリカにだって、おかしなことを言う人がいたのよ。クローン研究の先駆的な役割を果たした医学者の言葉なんだけど、その人はね、夫婦の遺伝子を受け継いだ子供を確実に手に入れたいのなら、クローン技術を使うしかないって断言してたの。そして、やがて人々は自分の技術を求め、社会全体もそういう方向に動くだろうと御丁寧に予言までした。もちろん、当時の国際法では人に対するクローン技術の使用が禁じられていたし、それに現代のようにクローン技術の人への応用が解禁される以前に、発生を助長する擬似的な形態形成場を人工的につくる技術が誕生したから、人工受精そのものにクローン技術が使用されることはなかった。だけど、そういうことを言う学者もいたということね。
> うーん。何だか傲慢に聞こえるけど、その人の言うこともわからないことはないなあ。クローン技術を使ってできた子供も夫婦の子には違いないでしょう? ・・・由利さんはその人の意見には反対なんですか?
> ううん。反対ではないけど、賛成でもない。それしか方法がないのなら、クローン技術の使用に異論はないし、それ自体は立派な技術だわ。だけど、奈津子さんと同じように私も言い方が気にくわない。傲慢なところは許せるけど、技術至上主義みたいなところがちょっとね。――過去の医療を例にしたカウンセリングのテキストにね、不妊に悩んでたある夫婦の会話が載ってたの。その旦那さんは子供を欲しがる奥さんに対して、常々こう言ってたらしいのね。自分の気の済むまで不妊症の治療を続けたらいい。費用のことは心配するな。子供ができるまで何度人工受精を受けても構わない。
> わあ、優しいご主人だなあ。
> 確かに優しいね。でも、四度目の治療で結果が出なかったとき、その人は妻にこう告げたの。三十五歳まで頑張って駄目だったらもうよそう、って。そのとき、奥さんの年齢は三十四歳。残るチャンスはあと一回だけ・・・以前は四十歳を越えても気の済むまでやれって言ってたのに、そのご主人はそう意見を翻したの。
> え? どうしてですか? やっぱり、お金が続かなかったの?
> 違う。・・・言葉だけを聞いたら、残酷なように聞こえるよね。あんなに欲しがっていた子供を諦めさせるんだから。
> うん。
> だけど、その奥さんは彼の言葉を聞いてほっとしたって言ったの。もう一回だけ頑張ったら、辛い治療をやめてもいいんだ。もしそれで子供ができなくても、自分は十分に努力してきた。そう言って、少しだけ微笑んだ。長年背負っていた肩の荷がようやく下りたのね。
> あ・・・そっか。
> 何となくわかる? 人間はね、時として、本来の目的を見失って、その手段だけに固執するの。手段や方法が、いつのまにか、目的や義務にすり替わるのね。彼女たちが目的としていたのは、子供を得ることだけど、その根底にあった本来の願望は幸福な家庭を築くことだったと私は思う。子供を諦めさせた旦那さんの言葉は、奥さんの心の中でいつのまにか変質し、義務化されてしまっていた不妊治療の苦しみから彼女を解放したの。義務化された苦しみに終わりを与えてあげること――これは立派な優しさでしょう?
> うん。そうですね。
> その奥さんの心は、先進的な医療技術にではなく、愛する旦那さんの言葉で救われたのよ。人の命と心を救うこと。これが医療の真の目的なはず。大切なのは、クローンだの何だのと自己顕示欲に満ちた高説を垂れることより、患者さんの心の奥にある根元的な願いを理解してそれを汲み取ってあげることだわ。さっき話した傲慢な学者さんは手段である技術だけに気を取られて、医療本来の目的を見失ってる。私はね、奈津子さん、現代医学をはじめ人間が生み出してきた文明の産物のすべてを歓迎するわ。どんなに間違った使われ方をしようともその技術自体に罪はないもの。それは使う側の人間の罪。科学はね、その技術が開発される以前は二者択一の問題だった、人間の心の中にある矛盾を解決する手段なの。光と闇を同時に存在させることを可能にした究極の叡知よ。技術を行使するうえで守らなければならない大切なことを忘れさえしなければ、現代の整備された移植医療のように科学は世界や生命を救う一つの手段となり得る。だけど、大切なことを忘れたまま医療技術を考えるのは、命に対する冒涜(外字)ね。その技術の臨床への応用を肯定するにしても、否定するにしても。
> うん。
> 話を戻せば、現代のように最新の技術に対して人々が寛容になったのは、ただの慣れだとか、本来の意味を考えることを放棄してる現れよ。本当に議論されなければならない大切なことは解決されずにそのままになってる。だから、いまでもときどき先進医療や科学に対する倫理問題を問う声が上がるでしょう? 奈津子さんが嫌いになりそうだと言ったこの国の思想的に怠惰な性質は、今も昔もそんなに変わっていないということね。クローン移植の社会的地位が確立された現代でも、生きるために移植を必要としている患者さんのことを忘れたまま、カゴの外で倫理だの何だのと公言している人はいるわ。生命の冒涜(外字)だとか、なかには神様まで持ち出してくる人もいる。それを問うことが人間として大切なことだと勘違いして大昔の倫理を蒸し返している。そういうことを言う人を間違ってるとは言わないよ。人にはいろいろな考え方があるからね。だけど、それはその人の命を懸けた言葉であるべき。本当に命を懸けた言葉で語るべき問題よ。今は「命を懸ける」っていうフレーズを安易に使う人が多いから、「本当に」って強調して言わせてもらうけれど。
> うん。わたしも何気なく使ってると思う。反省しなくちゃ。
> そうね。それくらい、命というのは大切なものなの。いつの時代からか・・・専門外だからよくわからないけど、人は命を軽く考え始めてる。言葉っていうのは、単なるコミュニケーションの道具じゃない。概念や思想の鏡よ。「命、命」って口先だけで軽く扱われるようになったのは、人の心の中で命が軽く考えられ始めてる証拠だわ。大いに反省してちょうだい。
> はい。

 題材を変えて何度も繰り返される由利さんの言葉が意味するもの。それはまったく同一の思想の上に成り立っている。
 彼女の言葉にこくりと頷きながら、君は心の中にわだかまっていたこだわりという名の氷が、その核を残して、さらさらと流れる水に変化していくのを感じていた。

> さて、それじゃあ、そろそろ奈津子さんの中の倫理的問題を考えましょう。反論があれば、いくらでも言葉をはさんでいいわよ。少しでも自分の中の倫理に違和感を感じたらそれを言葉にして表現してね。倫理を問題にする人に対して、私はかなり批判的なことを言ってきたけど、奈津子さんの中の倫理は別よ。患者さん個人の倫理的な思想は移植医療の中で最大の尊重を受けなければならないわ。第三者が机の上で論じてる倫理とは重さが違うもの。何故なら、あなたの中の倫理的問題には命が懸かっているから。わかる?
> はい。わかります。
> うん。じゃあ、奈津子さんは神様を信じてる?
> うーん。どうだろう? 実在しないとは思うけど、でも、人の心の中には存在してると思う。
> なるほど。健全な思考だわ。でもね、移植医療に関する倫理の中に神様の存在なんて不要なの。いらないとまでは言わないけど、次元の違う問題よ。人はね、生まれてきたときに命と同時に世界を手に入れるの。この世界はたしかに一つの原型(イデア)としてあるけれど、それを認識する個人の中の世界はひとつひとつが別なものなわけ。この理屈はわかる?
> 価値観とかそういう意味の世界ですか?
> それも入るけど、もっと大きな意味でよ。その人の命が失われたら、その人は世界を認識できなくなるでしょう? これは世界の消滅と同義じゃなくて?
> うーん。たしかにそうですけど、でもちょっと詭弁ぽく聞こえます。
> OK。じゃあ、人に好みがあるように、ある事象について人は様々な解釈を示すわよね。価値観もその要因のひとつだけど、認識の方式そのものが異なっているからだとは考えられないかしら?
> それはあるかも知れませんけど・・・でも、確定的な事実ではないでしょう?
> もちろん、そうよ。だけど、確定はできないけれどはっきりと否定もできないでしょう。それだけで、充分考慮されるべき問題だとは思わない?
> うーん。思います。でも、由利さんって、論理の逃げ道をどんどん潰していきますよね。
> 散逸しがちな論理の方向性をしぼってるって言ってよね。人によって真実は幾つでもあるけれど、生命の持っている目的はひとつのはずだから。
> 反論できません。
> じゃあ、納得したと受け取るよ。次に、世界を認識する意識が、他の個体の意識の世界観によって存在を否定されることについてはどう思う?
> それも由利さんが期待してる答えと同値です。
> 同値というのは有り得ないんだけど、多少の誤差は許すわ。だからね、他人には他人の世界があるように、患者さんには患者さんの世界があるの。患者さんの命が失われたら、それは患者さんの世界が消滅するのと同じこと。そんなことも考えずに倫理がどうのと自分の中の卑小な宗教観や世界観に囚われて歌を唄う人間を私は絶対に認めない。死にかけている人の枕元で運命だの神だの言う人間をね。それに百歩譲って、もしこの世に神様がいたとして、神様が人間をお創りになったのだったら、人間にできることは神様の聖域じゃないと私は思う。人間にできることは人間的なこと。人為も自然の摂理のひとつよ。
> でも、それを言ったら何をしてもいいってことになるんじゃないですか?
> そうよ。私はそう考えてる。人間はね、本当に幸せになるためにだったら、どんなことをしてもいいんだって。そうすることを初めから許されている生物なんだって、そう思ってる。科学を生み出した知恵を持っていることが、人間の動物的な性質でしょう? それを人間自身が否定するのは可笑しいわ。
> それはエゴだと思う。
> 違う。人間の力が神の聖域に及んだっていう考え方のほうがエゴだわ。思い上がりもいいところ。現代の先進医学を非難するのは、大昔に人間が火を使うようになったことを人間的じゃないって非難するのと同じことよ。それは、確かにどこかで線引きはしなくちゃならない。核や反物質を戦争に使っちゃいけないとかね。でも、その線引きの尺度に倫理を持ち出すのは馬鹿げてるわ。果たして人間の力はどこまで許されているんだろうって、可笑しな考え方だと思わない? 人間がすることを許すのは人間。神様じゃないわ。
> そうかも知れないけど、でも、してはいけないことはあるでしょう?
> もちろん、あると思う。でもね、もうスクロールアウトしてるんならログを確認してみて。私は単純に幸福追求を謳ってるんじゃない。幸福という単語の前に「本当に」って但し書きをしたはずよ。
> 本当に幸せになること・・・?
> そう。本当に幸せになるってことは、個人的な問題じゃなくて、社会全体で考えたときのことよ。奈津子さんの幸せ、あなたの大事な人の幸せ、口をきいたことさえない他の人の幸せ、ライオンやアフリカ象の幸せ、お魚の幸せ、ブナやタンポポや月見草の幸せ。カマキリやありんこの幸せ。地球に生きるすべての生き物の幸せが、奈津子さんにとっての本当の幸せなの。そのためだったら、人間はどんなことをしてもよいの。倫理なんか関係ない。全ての生命は自分の力の及ぶところ、どのような方法を使って世界に働きかけたって構わないのよ。静かに運命の断を待っていても、首を切られるだけ。あがいて生き延びられるなら、それも運命でしょう? よく運命論を唱える人がいるけどさ、運命という概念は過去に対して適用するものよ。未来に適用するものではないわ。未来を語る上での運命論はただの諦観論に過ぎない。私ね、子供のころ、テレビで動物紹介の番組を観ていて口惜しくてたまらなかったことがあるの。スタッフの目の前で怪我をしたシマウマを死ぬまで何の手当もせずに撮し続けてる場面でね。私、口惜しくて泣いちゃった。もちろん、そのシマウマの命が無駄になることはない。シマウマを食料としている捕食動物の飢えを満たすこともあるだろうし、それを助ければ、どこかで他のシマウマが代わりに犠牲になることだってあるだろうと思う。生命のサイクルを止めることはできないし、それをすることは自然のバランスを壊すことに繋がる。だけど、いま、目の前にいる怪我をした動物を救うのが、自然の掟を破ることだからしちゃいけないなんて考え方、私は可笑しいと思う。自然の掟はそんなことくらいで壊れない。怪我をしたシマウマを助けろと言っているわけではないのよ。見殺しにしても構わない。だけど、その行為を理由づけるのに、運命だとか野生の掟だとか持ち出すのが馬鹿げてるって言ってるだけ。
> それはわたしもそう思います。でも、そのシマウマの話は置いといて、すべての生命のための幸福なんて、現実にはそんなことは難しいんじゃないですか?
> そうね。いま私が言ってるのは、実際問題として実現不可能な理想論だね。だけど・・・ねえ、奈津子さん、こんな言葉知ってる?
> どんなのですか?
> 「幸福とは本来小さなものだ」
> いいえ、初めて聞きます。
> 昔の人の言葉でね・・・っていっても、誰が言ったのか、実は私も知らないんだけど。自己流だけど、解説しちゃっていいかしら?
> はい、お願いします。
> えっとね、奈津子さんや私が感じる幸せっていうのは、実はとっても些細なことなんだと私は思うわけ。人間は思考する動物だから、幸福の状態にもすぐに慣れちゃう。つまり、どんな幸福も長続きしないの。きっと、幸せって、瞬間を表す言葉なんだよね。――そうね、例えば、長い間、口をきいてくれなかった極道息子が、ある日突然、「親父、酒でも一緒に飲もうぜ」なんて言ってくれたら、それはそのお父さんにとって、ものすごく幸福を感じる出来事だと思うの。これって、普段からコミュニケーションをとっている親子の間では得られない幸福でしょ? 彼らにとっては、とるに足らないことだよね。だけど、意思の疎通がうまくいってない父と息子のあいだではそれはすごく幸せなことなのよ。でも、そのことを幸福だと感じたお父さんも、それが慢性化しちゃえば、もう、幸福とは感じなくなる。
> うん。わかります。
> だから、個人の感じる幸福っていうのは本来小さいものだと私は解釈してるわけ。もちろん、小さいからってそれが大切じゃないなんて言ってるわけじゃないよ。
> わかってます。誤解はしてません。

 そう答えながら、君は雷雨の中で過ごした屋久島の夜を思い出す。
 小さな幸福――。
 それはよい兆しのことを指すのだろうか? 悪い状況の中でわずかに見えた希望という名の光が幸福なのだろうか?
 多分、それは違う。
 それは幸福の一つの形に過ぎない。
 君は思う。
 たとえ状況が好転しなくても、たとえそれが徐々に悪化していっても、その中で人間は幸福を感じられる瞬間がある。
 激しい雷雨の中、テントという密室で手に手を取り合って、君は愛する人と息を潜めていた。頼りないほどに薄っぺらなナイロンの布地で囲まれただけの結界、山の大きさにくらべればまるで豆粒のように小さな、そして、ひ弱な結界。それは決して安全な場所ではなかった。
 だけど、その中で君は間違いなく幸福だった。君を脅かすもののない、コンクリートでできた堅牢な山小屋の中で、恋人に抱かれた夜よりもさらに濃密な一体感を君ははっきりと感じていた。
 きっと――。
 君は思う。
 幸福を生み出すのは、その人のちょっとした気持ちの持ち方だ。わずかに切り替えられた心の作用だ。
 では、何がそうした心の変容を促すのだろう?
 横殴りの雨が降り込まないようにテントのベンチレーターを絞り込むと、透湿性のある素材でできているはずのテントの内壁にわずかに水滴が付き始めた。防水性と透湿性、この二つの矛盾した性質はやはり完全には両立できないらしい。まして外の湿度は百パーセントだから無理もない話だ。その、うっすらと汗をかき始めたテントの内壁を恋人はタオルで拭っている。その恋人の手をそっと押さえて、君は自分の頬に当てる。
 そして、呟く。
 あなたはここにいる――。
 恐ろしい嵐の夜をわたしと一緒にこうして過ごしてくれている。
 だから、わたしは怖くない。
 愛するあなたと、恐怖と不安を共有しているから。
 幸福とは、きっと互いの心を共有することだ。
 そして、不幸な状態こそがそれを助長する。
 だから、幸福は小さいんだ。
 幸福になれば、不幸は終わってしまうから。
 幸福も不幸もとってもとっても小さなこと――。

「心を共有することが幸せなんだ・・・」
 君は声に出してそう呟いてみる。
 そして、一人で頷く。
 好きな人と心を通い合わせる。それ以上に満たされた感覚がこの世の中にあるだろうか?
 君は自分の思いつきに嬉しくなった。
 死神が鎌を振り回しているような恐ろしい風のうなりを聞きながらテントの中で感じた疑問が、まるで魔法の結び目のようにほぐれてゆくを君は感じる。
 宝物にしたいような考えを導いてくれた由利さんにお礼を言おうと君が我に返ると、画面にはすでに大量の文字が打ち出されていた。君はそれがスクロールアウトしてしまわないように慌てて目で追った。

> ここまではわかってくれたみたいね。さて、その小さな幸せに対して、最初に言った社会全体の幸福、全ての生き物のための幸福が「大きな幸福」だと私は思うわけ。みんなが互いに相手のことを思いやる、格好よく表現するなら、愛で満たされている永続性を持った空間。それが本当の大きな幸福。これは奈津子さんの御指摘の通り、理想論の中にしか存在しないかも知れない。だけど、この社会に生きてる個人の小さな幸福、とるに足らない幸福を上手に見つけて、それを大事に大事に育てて、みんながキャッチボールにキャッチボールを重ねていけば、もしかしたら、いつの日か実現されるかも知れない、なんて思わない?
> うーん、難しいかも知れないけど、でも、素敵な考え方だと思います。ちょこっと感動しました。
> 案外、ひねた子ね。
> ごめんなさい。でも、わたし、由利さんのこと、前よりもっともっと好きになりました。
> ありがと。――で、ものは相談なんだけど。
> 何ですか?
> そろそろ、仕事させてくれないかな?
> ああ、はい。どうぞ。
> 「どうぞ」って言われると、やりにくいなあ。じゃあ、いい? 私の希望を言うわね。私の希望は、あなたに良くなってもらうこと。そして、また、山にも登れるようになってもらうこと。爽やかな風の中でカップヌードルに舌鼓を打ってもらうこと。そんな小さな幸せを奈津子さんが再び感じることができるようになれば、それは私にとっても、自分の仕事に対する充実感とやり甲斐という名前の小さな幸せを手に入れることになるんだけど。――ねえ、私にボールを投げてくれないかな?
> はい、わかり■

 君は由利さんの言葉に対して急いでレスを返そうとした。移植手術に対して完全に迷いがなくなったわけではないけれど、急いで返事をしないとまた彼女に余計な面倒をかけてしまう。それに何より由利さんにボールを投げてあげたいと君は思う。
 ねえ、あれで本当に納得しちゃったわけ?
「だって、由利さん、わたしのためにこんなに言葉をつくしてくれてるんだよ。それに、あんなふうに言われたら、はいって答えるしかないじゃない」
 少し強引に聞こえるけど、彼女は自分の考えを述べただけだよ。それを彼女の気持ちを考えてって自分に言い訳してそのまま鵜呑みにするのは、妥協じゃない? 君はお父さんの娘なんだろ?
「そんなこと言わないでよ。実際、このままの状態だったら困るわけだし・・・」
 ま、そうだね。でも、すべての生き物の幸せのためだったら、クローン生体の幸せも考えなきゃいけないんじゃない?
「だって、移植に使うプロトタイプにはもともと脳がないのよ。まだ、意識のない神経胚の段階で神経管の一部を取り去るって、由利さんも言ってたじゃない」
 でも、心と脳は違うんだろう? まして、君は倉橋さんとの会話の中で生物以外のものにも心があるって考えたよね。実感したかどうかは別にして。それなら由利さんが言った本当の幸せは、生命あるもののためだけじゃなくて、全てのもののための幸せじゃないかい? 心を共有することが幸福なんだって、さっき君はそう考えたばかりじゃないか。
「いじめないでよ・・・とにかく、わたし、手術は受ける。それはもう決めたの」

> 奈津子さん?
> え? あ・・・はい。
> どうしたの? 全然レスが返ってこないから、心配しちゃったじゃない。
> あ、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしちゃって・・・でも、わたし、決めましたから。手術受けるって。ボール、受け取って下さい。
> ちゃんと受け取れるボールを投げてよね。
> え?
> 何かまだ、納得できないんじゃないの?
> そんなことありません。どうして、疑ったりするんですか?
> 奈津子さんの持つ豊かな感受性と深い思考力。最初に言ったわよね。IQ、高いでしょって。
> それは買いかぶりです。わたし、変なことばかり考え込んじゃって・・・普通の人だったら、問題にもしてないようなことがわかんなかったりするもん。本当のこと言うと、他の人に馬鹿にされてばかりいるんですよ。
> それはあなたが他の人たちよりもよくものが見えているからよ。だから、他の人が気にも留めてないことを疑問に思うの。あなたが何を考えてたのか、当ててあげようか?
> え?
> あなたの足の幸せ。ううん、あなたに足を提供するプロトタイプの幸せかな? そうでしょう?
> ・・・わたし、やっぱり変でしょう? 本当に分からず屋。プロトタイプなんて、脳のないただの肉の塊なのに。
> でも、あなたはそう思ってないわけだ。
> うん。ねえ、由利さん。わたしに足を提供してくれるクローン生体のことを、ただの肉の塊だって割り切っちゃっていいんですか?本当にプロトタイプには意識がないんですか?
> 「ある」って、言ったらどうする?
> だったら、わたし、彼女から足なんてもらえない。
> ねえ、奈津子さん。じゃあ、意識って何だと思う?
> 自我とか痛みなんかの感覚があることだと思いますけど・・・。
> そういう答えられ方とすると、私としては非常に困るんだなあ。本当に「ある」って言わなきゃいけなくなるから。・・・あのね、奈津子さん。プロトタイプには明確な自我というのはないわ。だけど、感覚はあるはずなの。ホルモン分泌などを司ってる小脳は残してあるからね。人間が感じるような「痛い」って感覚はないかも知れないけど、麻酔をしてない状態で刺激を与えれば反射は行われる。
> ああ・・・。わたし、どうしたらいいんだろう。
> 奈津子さん、約束忘れないで。一人で思い悩まないって言ったでしょう? ねえ、じゃあ、話を変えるけど、人間の意識ってさ、いつから生まれると思う?
> それは発生段階における設問ですか?
> そうよ。
> 妊娠四カ月くらいからかなあ? ある程度、脳や神経組織が形成されてからだと思うけど。
> 発生学的に言えばそうだろうね。でも、私、奈津子さんがそんなふうに答えるとは思わなかった。
> え、どうしてですか?
> 私はね、意識と心というのは、ほとんどの場合同義だと思うのね。
> あ、そうか。うーん。じゃあ、どう答えればいいんですか? そんなふうに言われたら、わたし、受精した瞬間からって答えなきゃいけなくなる。
> そうね。奈津子さんならそう言うと思った。でも、意識の発生の時期なんて、いつだっていいのよ。あなたがそう思ったときが意識が生まれた瞬間なんだと私は思う。例えば、人は妊娠した事実を表現するときに「子供ができた」って言うわよね。胎児を、たとえそれが受精したばかりのまだいくらも分裂してない段階でも、「子供」と表現したときには、もうそれは一人の人間なんだと思う。生物学的な話を抜きにして言えば、私は胎児の親が「子供」と認識したときに、意識も生まれるんだと考えてるわ。その瞬間に胎児は「人間」になったんだから。
> そうですよね。わたしもそう思う。生物の先生なんかに言ったら馬鹿にされそうだけど。
> 馬鹿にされたっていいじゃない。それにもともと線引きなんてあやふやなものだわ。必要に迫られて人間が作ってるだけだもの。もちろん、法律として成文化されてるものには最低限従わなければならないけど、それ以外のものは個人の価値観で判断するべきよ。それが信念というものでしょう? 日本が民主国家になったのは、二十世紀に入ってからのことだけど、その時代の法律でも胎児がいつ人になるかという線引きは、いまの私たちから見れば、首をひねりたくなるようなものだったのよ。
> え? どういう線引きだったんですか?
> 当時の民法にはこう書かれてる。「私権の享有は出生に始まる」ってね。つまり、人は生まれた瞬間に初めて人になるっていうことよ。だから、堕胎は殺人ではないの。でも、一方で相続権に関しては胎児にも認められてる。もちろん、悪い法律ではないと思うわ。国民の財産相続に関して一定の基準を示すためには適当な線引きでしょう?
> うん。
> 堕胎の法的記述に関してだけ言えばね、その当時は母体保護法というのがあった。それによって、法的に中絶が認められていたの。
> え? 全般的に承認されてたんですか?
> ううん。一応、制限はあったわ。「妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れのある」場合と「暴行若しくは脅迫によってまたは抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠した」場合。この二つのケースに限って中絶することが認められていた。中絶の時期にも一応の制限があったわ。「胎児が母体外において、生命を保続することのできない時期以前」ならば許されるっていうふうにね。当時の法的見解では、大体、妊娠二十三週以前ってところかな。だけど、そういうふうに決められてはいても、実際は体面だとか世間体だとかを気にした当事者の判断に委ねられていたのよ。事実上の制限なんてなきに等しい。
> うーん。ちょっと、信じられないけど・・・。
> それは奈津子さんが現代人だからよ。私はそれほど悪い法律とは思わないわ。法律なんてその程度のもの。個々のケースに完全に対応できるほど、法律は万能じゃないの。単純に基準を示した言葉でしかないんだから。奈津子さんは信じられないって言ったけど、それでもずいぶん民主的な法律になったほうなのよ。ほんの少し時代を――五十年ほど遡ればね、中絶を認める法律はもうちょっと強烈だったんだから。
> どういうふうにですか?
> さっきあげた二つのケースの他にね、もうひとつのケースが認められていたの。「優性上の見地から不良な子孫の出生を防止する」、つまり、本人や配偶者、そしてその近親者に精神疾患や遺伝的疾患が認められた場合も中絶を是としていた。いわゆる優性保護法と呼ばれていた法律だね。
> そんな無茶な話ってないわ。当事者の苦しみを考えればわからないでもないけど、法律として成文化されてたなんて酷すぎる。
> そうね。公の文書がそう明言するのはあんまりね。共生観とか人権を完全に無視した法律だわ。だけど、奈津子さんが生きるこの現代の法律も私は少しおかしいと思う。「自然受精における、明らかに十五週目を経過したと認められる胎児の中絶はこれを禁止する」なんて線引きはあんまりいただけない。現在では昔と違って、殺人罪に匹敵する罰則も設けられているけど、十五週以前の堕胎については何の言及もしていない。たとえ、四カ月以前でもその両親の片方だけでも胎児を「子供」と認識してたなら、それは立派な殺人行為だわ。
> たしかにそうですけど、じゃあ、由利さんは全面的に禁止すべきだって言いたいんですか?
> ううん。認めてるわよ。ここで法律のことを話し合っても仕方がないけど、私個人の意見は、十五週以前についても胎児の生命は最大の尊重を受けるべきってところね。
> ええ? 論理的に矛盾してませんか?
> 矛盾はしてないわ。そうね、じゃあ、ちょっと寄り道をするよ。昔の場合はバーチャル技術の進んだ現代と違って、実際の性犯罪も多かったらしいし、避妊に関する確実な医学的技術も存在しなかったから、堕胎を明確な罪とするのは女性にとっては酷なことだった。望まない妊娠がたくさんあっただろうからね。
> うん。
> だけど、生命はどんな不幸な経緯で生まれようともそれ自体に罪はないわ。完全に無垢なる存在よ。まして、ヒトの胎児や受精卵はいかなる発達段階でも、その潜在性において人間であることに間違いない。だから、どんな事情があっても中絶は殺人行為。でも、それでも、私は中絶に関する女性の権利は保障されるべきだと思うの。何故なら、ヒトの本体である心や意識は、生命と同等の価値があるから。肉体的な暴力に対して、人や法律は正当防衛を認めてるわよね。だけど、精神的な暴力に対して、それが認められていないのはおかしいわ。レイプとか、不慮の事故による妊娠は女性にとって内外の両面から加えられる精神的な暴力よ。人の本体は心なの。人によっては自尊心を汚されることは命を奪われるより辛いことなの。だから、私は堕胎を殺人だとした上で、それでもその権利を女性に認める。大切なのは、それについて当事者が命を駆けた決断をすること。その結果選択されたものであれば、私は殺人者でさえ優しく包み込んであげる。現代についても同様ね。たしかにいまの男どもはコンピュータの中で満足してるから滅多にないけど、たまにそうした犯罪も起こるから。――と、まあ、こんなところね。
> 由利さんって、素敵。
> 茶化さないの。
> そんなつもりで言ったんじゃありません。
> わかった、気に留めとく。じゃあ、最初の話に戻るわよ。プロトタイプに意識はあるのか? もう、わかったんじゃない?
> 由利さんは「ない」って言いたいんですね。
> 「ない」と断言はしないけど、あなたはそう考えていいの。もちろん、最初に言ったように、プロトタイプには自我はないけれど感覚はある。だけど、その身体に意識を与えるのは、移植された患者さん本人なのよ。あなたが新しい足で地面を踏みしめ、培養槽の中では味わえなかった生活の喜びを移植された足に与えてあげることが、プロトタイプにとっての幸せなんだと思う。
> 本当にそう考えていいんでしょうか?
> 最終的にはあなたが決めることだけれどね。でも、私は奈津子さんにそう考えて欲しい。
> はい。由利さん、ありがとう。
> ううん。あなたは素敵な子よ。とても素敵な患者さん。カウンセリングのし甲斐があるわ。
> 苦労かけます。あ・・・でも、どうして、由利さん、わたしの最初の答えにそんなふうに答えるとは思わなかったって言ったんですか?
> 最初の答えって?
> 意識が発生するのは四カ月目からって答えです。ううん、大体、どうして由利さんはそんなにわたしの考えの行方がわかるの? 脳死のとこでもそうだったし、それに、わたし、由利さんにバーチャル嫌いだなんて言ってないはずだけど・・・。
> ああ、そのこと。倉橋さんが言ってたの。奈津子さんは、心と脳の違いに気付いたよって。だから。
> え?
> どうして本物の山に登るのか――素敵な答えだったわ。
> ええっ。もしかして、ログを取ってたんですか?
> まさか。・・・でも、一晩中何も話してないことなんてないでしょう。ログが残ってないから、変だなって思って、倉橋さんを苛めて、強引に聞き出しちゃった。――ごめんね。
> ああ、もう。倉橋さん、口が軽いんだから・・・。
> そんなに恥ずかしい話してたの?
> 由利さんの意地悪。
> ふふふ。それに、あなたの答えを聞いて、私、すごく嬉しかった。
> え?
> わたし、お父さんの娘なんです・・・って、そう言ったそうじゃない。倉橋のおじさまに久しぶりに褒められたわ。いいカウンセリングをしたって。
> あ、そのこともありがとうって言わなきゃいけなかったんだ。由利さん、ありがとうございました。
> ううん。仕事だもの。最初に力になるって言ったでしょう? それにね、私、あなたのお父さんのこと少し尊敬してる。だから、あなたにもその気持ちをわかって欲しかったの。奈津子さんのお父さんの素敵なところをね。普通、子供が問題に直面してるときにきちんとした対応をとらなかったら、その子の心は歪んでしまう。でも、あなたは素直な性格してるでしょう。綺麗な心の持ち主だよね。これはあなたのお父さんがそうしてくれたのよ。あなたの心を磨いてくれたの。たしかに少し言葉が厳しすぎる面はあったと思うわ。その証拠に奈津子さんはちょっぴり臆病だもん。人の心の動きに過敏に反応してるところがある。だけど、基本的には健康な心をしているわ。多分、お父さんは、あなたのお母さんが亡くなったことで、子育ての責任を一人で背負い込んでしまって少し気負いしたのね。ちょっとばかり、厳しくしすぎた。それくらいは仕方がないわ。私たちのように心のケアに関する訓練を受けてないんだもの。だから、もし、あなたにそれができるんだったら、それくらいは許してあげてね。だけど、最後に一つだけ言わせてもらうけど、あなたはとても愛されて育てられてる。それは私が保証する。
> すごく心強い保証です。本当にありがとうございました。お父さんのことも、わたし、好きになれそうだし・・・。
> 当然ね。好きになるのはあなたが決めることだけれど、一応、私はそういうふうにカウンセリングしたんだもの。
> こうなること、わかってたんですか?
> うーん。企業秘密って言いたいところだけど、ちゃんと計算はしてた。種明かしをすれば、最初にあなたがお父さんのことを「あの人」って言って、私がそれを叱ったでしょう? そのとき、あなたがすぐに謝ってきてくれたことで、あ、これはいけるなって、そう思った。キーワードは、私がお父さんのこと好きだって言ったことね。その言葉を聞いたとき、多分あなたは嬉しくなったはず。そして、私の予想通り、あなたが嬉しく感じていたなら、その時点で、カウンセリングのコアの部分は終了してたの。あれはお父さんのこともそうだけど、あなたのことも私は好きだって言ったのよ。言葉に厳しいお父さんを褒めることは、本物の山に登る奈津子さんを褒めるのと同じことでしょう? そのことにあなたが心の奥のほうで気付いていたから、嬉しく感じたわけ。あとはその意味に奈津子さんの表に出ている意識が気付いてくれれば、それで終わり。だけど、それをするのは奈津子さん自身なの、私の仕事じゃない。言葉で教えても、心には届かないのよ。自分自身で気付くしかない。最後の話は、おまけね。ヒントを与えたくらいだわ。――わかった?
> すごい。由利さんって、ほんとにすごいです。わたしも勉強したら由利さんや倉橋さんのようなカウンセラーになれるかしら?
> なりたいの?
> うん。だって、すごく素敵な仕事だもの。
> いまからでも遅くはないと思うわよ。特に奈津子さんにはその素養が十分にあると思う。
> 本当ですか?
> もちろん。私の言葉を疑うの?
> 疑いません。信じます。わたし、退院したら、夜学でも通信教育でもいいから、勉強してみます。
> 心強い後輩になることを期待してるわ。さて、話を元に戻すわよ。今度は移植カウンセリングの続きね。もう、大体決心はついたと思うけど、せっかくだから、補足しとく。どんなふうに話そうかな?・・・うん、じゃあ、あなたをカウンセラーの卵と認めて、先輩の私が、この仕事のことを難しいなって、初めて壁にぶちあたったときの話をしてあげる。
> はい。拝聴させていただきます。
> ふふ。じゃあ、いい? あるところに愛し合っている二人の男女がいたの。だけど、彼らの愛は許されないものだった。何故なら、二人は実の兄妹だったから。でも、彼らは真剣に愛し合っていた。たとえ、人に後ろ指を指されても。――ねえ、奈津子さん、あなたはこの二人の愛を認めることができる?
> 二人には両親はいなかったんですか?
> うん。もう、亡くなってらしたわ。
> だったら・・・別にそれが理由じゃないけど、わたしは認めてあげたい。だって、何も悪いことしてないと思うから。別に犯罪を犯してるわけでもないし、誰にも迷惑はかけてないし・・・。
> そうよね。だけど、彼らの愛は禁忌を犯してる。ほとんどの動物は近親婚のタブーを犯さないし、人間社会でも法律で禁じられてる。
> それって、どこか変だわ。昨日、倉橋さんと話したけど、人間はもう遺伝子や本能の支配を越え始めている動物なんでしょう? 遺伝子的につながりのない個体同士の愛情が、その証拠だわ。男女間の愛情が子孫を残すためだけじゃなくなったのなら、わたし、兄妹でも男と女として愛し合っていいと思う。彼らの場合、たまたま愛した人が兄であり妹であっただけじゃないですか。
> そうね。ヒトの精神的な進化を考えれば、わたしももう近親婚がどうのと問題にされる時代は終わりつつあると思う。だけど、法律は守らなければならないわ。
> でも、法律は、個人を、心正しく生きている人間を幸福にするためにあるんでしょう? その法律によって、個人の幸せが束縛を受けるなんて間違ってませんか?
> いいえ。その点については、あなたの認識が間違ってる。法律は、社会の秩序を維持するためにあるの。決して個人の幸せを保証したり保護したりするものではないわ。さっきも言ったでしょう? 法律は万能じゃないの。ただ、線引きをするだけ。
> それだったら、その法律がおかしいんです。
> 奈津子さん、言いたいことはわかるけれど、それが現実なのよ。
> じゃあ、法律を変えたらどうなんですか?
> それは無理ね。法律だけを変えても無駄なの。変えることは可能だけれど、だけどどこかにきっと無理が出る。心の問題と同じよ。さっきの堕胎の話もそうだったけど、歴史の教科書をひもとけば、現代じゃ考えられないような法律が横行していた時代がたくさんあったでしょう? そして、昔にくらべれば、格段に民主的になった現行の法律でも、百年二百年経ってみれば、なんて野蛮な法律だったんだろうって省みられる時代がきっと来る。法律はね、人間が作るものなの。そして、その人間は社会が作るの。時代が作るのよ。だけど、その社会や時代を作っているのは人間なの。彼らを法律で養護するためには、それらをすべて含んだ・・・そうね、システムっていう表現が妥当かな? それを変えなければ、どうしようもない。
> それは、そうだけど・・・。でも、わたし、そういうのって、すごく口惜しい。
> 優しい子ね、奈津子さんて。さあ、物語の続きを聞かせるわ。いい?
> うん。
> さて、あるとき、そのカップルの妹さんが事故に遭ったの。身体にひどい損傷を受けたけど、あなたのように命は取り留めた。そして、欠損した器官を補うために移植手術が行われることになった。私はあなたに言ったように彼女にもこう言った。「あなたの以前の身体はどんなふうでしたか? 美容整形の希望も入れられますよ」って。そうしたら、彼女は身体をすべて取り替えて下さいと答えたの。一定の心理試験をパスしない限り、性転換脳移植でも美容整形のための移植でも、医療保険が利かないから莫大な費用がかかる。年齢などに関する法的な制限もあるしね。だけど、彼女の場合は事故で身体の中のかなりの部位を交換しなくてはならなかった。彼女の脳に完全体のプロトタイプをそっくりそのまま移植しても、それほど多額の出費にはならない。だから、彼女はそう申し出たのね。どうして、彼女がそんなこと考えたのか、奈津子さん、わかる?
> お兄さんの妹としての身体を・・・捨てたかったんですね。
> そう。愛する人と同じ両親から受け継いだ遺伝子を捨てたかったの。彼女は言ったわ。このまま、兄と暮らしてゆくことはできる。避妊をしてれば、愛し合うことだってできる。だけど、わたし、どうしても兄の子供が欲しいんですって。自分の身体で愛する人の子供を産みたいんですって。
> その気持ち、よくわかる・・・。
> うん。女性としたら当然ね。もちろん、彼女の言うように手術をしても、婚姻そのものは法律では認められない。だけど、もぐりのハッカーに依頼すれば、戸籍のデータは書き換えられる。そうすれば、婚姻もできるし、生まれてきた子供に戸籍や社会的な権利も与えられる。彼とプロトタイプの遺伝子の子供だから、遺伝的な障害が生じる心配はないし、それに禁忌を破ることに対する自分たちの心も慰めることができる。彼と実際に肉体的な交わりをして、そして、自分のお腹を痛めて産んだ子供を手にすることができる。私は悩んだわ。たとえ、そうしても兄妹として生まれてきたのだから、近親相姦には違いない。だけど、それを禁忌としたのが、単純に遺伝的な要素からだとしたら・・・って、わけがわかんなくなっちゃった。普段の私だったら、甘えないでって一喝するところだけれど、それができないくらい、彼女たちは愛し合ってた。
> なんて答えていいのかわからない・・・。
> そうね。私もいい加減困って倉橋さんに相談したの。そしたら、怒られちゃった。若輩者めって。
> ええっ? 倉橋さんは解決しちゃったんですか?
> 移植カウンセリングに必要な一番肝心な点を見失うな。どんなに問題が複雑化しても、心と体の関係は一つだ。そう言われたわ。それからね、私があの中年おじさんを尊敬するようになったのは。
> わあ。倉橋さん、どういうふうにカウンセリングしたんですか?
> 失礼ね。カウンセリングしたのは、私よ。
> あ、ごめんなさい・・・あの、どういうふうに答えたんですか?
> 私、倉橋さんに言われたことを、一字一句そのままあなたに教えたのよ。それでも、わからない?
> うん。やっぱり、わたし、頭悪いんです。
> それは違うな。素養の違いね。私はこれでも専門的な訓練を受けてきたのよ。ちょっと優越感持ちたかったから、意地悪してみたの。じゃあ、教えてあげようね。私はこう言ったの。――無事に残ったのが、ほんの一握りの身体でも、そんな理由で捨てちゃいけない。嫌いになっちゃいけないって。そんな理由で自分の身体を捨てたら、新しい身体もあなたは嫌いになってしまう。その身体から生まれた新しい生命もそのうちきっと嫌いになる。あなたが彼との愛に殉じて、その生命を好きになろうと無理な努力をすれば、今度はあなたの心が壊れていく。だから、私は完全移植を勧められませんって。
> じゃあ、子供のことはどうしたんですか? 諦めさせたの?
> ううん。彼女はいま一児の母親よ。
> え?
> 彼とのあいだに子供を作ることは簡単なことだわ。ほとんどの人たちがやってるように理想的な相性の遺伝子を持った・・・彼女たちの場合はお兄さんの精子と相性のよいドナー卵子をバンクから貰い受けて、人工授精をする。そして、それを彼女の子宮に着床させる。これなら法律的に何も問題は起きないわ。それは、たしかに彼女が望んだナチュラルな生殖じゃないけど、彼の子供はできるでしょう? もちろん、二人が結婚することはできないけど、彼女は未婚の母として、子供を育て、彼が一緒に生活してその暮らしをバックアップする。それだったら、戸籍の改竄なんて法律を破る必要はないし、何も問題ないでしょう? 他にも子供を作る方法はあるわ。彼女たちが法的に結婚できるんだったら、養子を貰えば一番話は早いけど、それが不可能でも、親のいない子供を引き取ることはできるわよね。もちろん結婚してないから、自分たちの正式の子供として育てることはできない。けれど、その子を愛してあげることはできる。
> うーん。でも、それって彼女が望んでいた自分たちの子供じゃないんじゃないですか?
> 奈津子さん、問題を見失わないで。彼女と彼の子供っていうのは、どういう意味なの?
> え? どういう意味って・・・。
> 彼と彼女の子供って、一体誰が決めるの? 法律? 他人? それとも、遺伝子?
> あ・・・そっか。
> わかったみたいね。あなたの考えている通りよ。彼女と彼の子供っていうのは、誰が決めるわけでもない。彼女と彼が決めるのよ。そして、愛し合って一緒に暮らしていれば、それで家族なの。家族ってそういうものでしょう?

 君は由利さんがどうしてこんな話を始めたのか、初めて理解することができた。
 実の兄を愛してしまった彼女が本当に幸せになるために必要ならば、由利さんも倉橋さんも完全移植を認めただろう。言葉には出さなかったけれど、由利さんは二人がもとの身体のままで子供を作ってもそれを祝福してあげたに違いない。
 問題は、形式とそれを守るための手順だ。
 いくら頭でわかっていても、心を騙して生きてゆくことはできない。心に理解させるためには、形に理解させるしかない。自分の身体に理解させるしかない。だから、倉橋さんも由利さんも完全移植を認めなかったのだ。
 君はそう思う。
 そして、君は移植を受ける決意をする。
 形を受け入れることを心で理解する。

> 由利さん。わたし、手術を受けます。
> それはさっき聞いたわ。
> うーん。じゃあ、手術を受けて足ができたらもう一回山に登ります。そして、頂上に立って、自分の足にこう言います。由利さん、ありがとうって。由利さんに言うんじゃないんです。自分の足に言うんです。プロトタイプから分けてもらったわたしの新しい足には、由利さんの心も入ってるから。だから、自分の足にそう言うんです。由利さん、ありがとうって。
> うん、ナイスボール。了解しました。・・・じゃあ、移植処理班に連絡するわね。もう、待機してるはずだから。
> はい。足ができたら会いに行きます。
> 楽しみにしてるわ。さあ、導入剤を入れるわね。次に目覚めるときは、足も着いていてすぐに歩けるようになるはず――。
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