らんぼ~流 山屋の視点
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> こんばんわ。
> こんばんわ。よく眠ってたね。
> いま何時ですか?
> 十時三十八分と・・・四十一秒。あ、もちろん午後だよ。僕が喋ってるからね。
> それはわかってます。端末に倉橋さんの名前が出てるから。・・・でも、こっちは時間の感覚がないから、何だか調子狂っちゃって。
> 正常な反応だよ。もともとその部屋で最初に君が目覚めたのはお昼過ぎだったし、君の身体の様子をみて、ときどき点滴に導入剤を混ぜたりしてるからね。それにヒトの体内時計の周期は二十五時間だから、お日様の光を浴びてないと少しずつずれて当然だよ。気にせず、眠りたいときに眠りなさい。今の君には休養も大切な仕事だ。
> はい。
> さて、どうする? 何か話でもするかい?
> 倉橋さんのほうのお仕事はいいんですか?
> 君が話をしたいときにその相手をするのが、僕の最優先の仕事だ。
> じゃあ、少し付き合って下さい。
> OK。・・・どうして山に登るか、その答えはわかった?
> それは、もう少し考えさせてもらえませんか。まだ、これっていう答えが見つからないんです。
> じゃあ、なんの話をしようか?
> うーん、今日は倉橋さんが決めて下さい。
> そうだね・・・じゃあ、夜も更けてきたことだし、エッチな話はどう?
> え・・・それは、ちょっと恥ずかしい。
> 嫌かい?
> だって、わたしと倉橋さんの会話って記録されてるんでしょう?
> ログオフにすれば、大丈夫だよ。
> でも、今のこの会話は記録されてるんでしょう?
> 遡って記録を消してあげる。
> う・・・、野次馬根性出してもいいですか?
> 僕のほうもね。
> わかりました。ちょっと、どきどきするけど。
> よし、じゃ、ちょっと待ってね。

 話すの?
「うん。だって、興味あるもん」
 ――安心した。やっと、普段の君に戻ったって感じがする。
「それ、どういう意味?」
 言葉通りの意味だよ。元気になったって。
「ふうん。じゃそういう意味に解釈しといてあげる」
 疑り深い子だなあ。

> OK、準備できたよ。
> えっと、じゃあ、わたしから質問してもいいですか?
> もちろん。
> 最初から飛ばしますよ。あの、バイセクシャルの人って、男の人も女の人も愛せるんですよね?
> まあ、そうだね。でも、その表現はあまり好きになれないなあ。なっちゃんの場合、性愛の対象は男性だろ。だけど、中には嫌いな男もいるんじゃないの?
> それはそうですけど、でも、たとえ彼氏が永遠にできないとしても、女の子を性の対象にはしませんよ。何とかして、異性の恋人見つけようと努力します。
> うーん。じゃあ、なっちゃんは女の子の友達はいる? 刎頸の交わりみたいな、大親友。
> 死ななくちゃダメですか?
> じゃ、一般的な意味での親友にしようか?
> それだったら、いますよ。
> その人のこと好きなんだね。
> うん。いい子だもん。でも、その子とエッチしたいとは思いませんよ。
> なるほど。でも、僕に言わせれば、それってすごく不自由だと思うんだよね。
> 不自由って?
> その子のことを好きなんだろう?
> それは、そうだけど・・・でも、好きだからエッチするわけじゃないでしょう? 親とか兄弟だとか何らかの愛情を感じる相手はたくさんいるけど、それは性愛とはまた別の愛情じゃないですか。
> でも、性交渉じゃなくても、接触は求めない?
> そんなことよほどのことがない限り、しないんじゃないのかなあ?・・・わたし、兄弟いないからよくわからないけど。
> それを君にさせないのは単純に気恥ずかしさだとか、相手の反応を考慮してるからだろう? 実際、女の子なら、ぬいぐるみなんかを抱きしめるときがあるんじゃない?
> それはありますけど、それは相手が人間じゃないからです。あ・・・そうか。うーん、倉橋さんの言うとおりですよね。
> ここまではいいみたいだね。じゃあ、視点を変えて、いまの彼氏が何らかの理由でエッチできない身体になったとするじゃない。
> うん。あんまり考えたくないけど。
> まあ、例えばの話だから許してよ。そうなったら、他の男に鞍替えする?
> それは・・・きっと、しない。
> じゃあ、そのままの関係を続けるとして、彼氏が彼なりの方法で、君の体を求めてきたら、君は体を許す?
> うん。すごく悲しいけど。
> ちょっと、気分のよくない話をするよ。いまの医学を持ってすれば、彼の精神や脳にさえ欠陥がなければ、男性機能を取り戻すことは簡単だよね、たとえ、首から下が全部なくなっちゃっても、脳を他の男のボディに移植しちゃえばいいんだから。
> う、うん。
> 現実の移植にはプロトタイプっていうボディを使うわけだけど、例えばの話だから、もうちょっと強烈にいくよ。もし、彼氏の脳が、なっちゃんの一番嫌いだった男のボディに移植されたとしよう、それでも君は体を許すかい?
> 抵抗はあるけど・・・、彼の心が変わらないんだったら許すと思います。
> じゃあ、彼の脳が女の子の身体に移植されちゃったらどうだい?
> 待ってください。それは、問題が違うじゃないですか。男性機能の回復になってません。
> なっちゃんがセックスするのは、子供を作るためだけかい?
> 違います。もちろん、結婚したら子供は欲しいですけど、そのためだけじゃありません。
> じゃあ、別に問題は違わないよ。女性のボディに移植された彼はホルモンの関係で少しずつ女性の体に対する性欲は減少傾向を辿るけれど、それでも完全にはなくならない。それまで男として生きてきた記憶や生活観の影響でね。だから、君との間に子供は作れないけれど、彼は君の体を求めてくる。そのとき、君はどうする?
> そんなこと、いますぐ答えられる問題じゃないです。それに考えたくない。
> 考えてごらん。夜は長いよ。それとも、これも宿題にするかい?
> 倉橋さん、ずるい。もしかして、わたしの最初の質問に怒ってるんですか?
> 怒ってなんかいないよ。君の質問に答えようとしているだけだ。
> うーん。
> さあ、考えてごらん。いつまでも待ってるから。

 待っていると言われたらどうしようもない。
 それに倉橋さんからはすでに一つ宿題をいただいている。それだけでも十分時間が潰されているのに、これ以上、やっかいな宿題が増えるのは困りものだ。
 君は溜め息を一つつくと、少し考えてみることにする。
「ねえ、《愛しの君》はどう思う?」
 僕には関係ない問題だ。
「でも、あなたは男でしょう?」
 君は好きな人に抱かれてるとき、僕のことを意識したことがあるかい?
「それはないけど・・・」
 だろう。君はセックスのとき、相手の男性に僕の姿を投影してる。だから、そのとき、君の中に僕は存在できないんだよ。
「うーん」
 君は仕方なく、彼の意識をした女性に抱かれることを想像してみる。
 体に触れられることに対する嫌悪感はそれほど強くはない、と君は思う。むしろ、嫌いな男に触られるよりはましだ。だけど、彼の心はそのままの形で彼女の中に存在しているのだろうか。

> 倉橋さん?
> うん? 答えは見つかった?
> そのときにならなければ、わからないけど、でも、多分最初のうちは許容できると思います。だけど、何度も何度も迫られたら、わたし、そのうち拒否するようになると思う。
> どうして?
> それは異性の裡にいると、少しずつ彼の心が変形していくと思うからです。その行為の目的が、わたしに対する愛情や肉体の自然な欲求というよりも、自身の男性としての存在を確認するために・・・ううん、男性だったことに対する執着からきているような気がして、多分、わたしは怖くなる。
> 執着は罪悪ではないよ。
> だけど、醜くないですか?
> 醜くもない。執着というのは、愛の一形態に過ぎない。同じように嫉妬も立派な愛だ。コントロールさえ誤らなければ、両方とも自分を高める動機となりうる感情だ。たしかに乗りこなすのは難しいけどね。君が醜いと思うのは、その操縦を間違って歪んでしまった心のことだろう?
> そうですよ。倉橋さんの言うことは理解できるけど、でも、同じことを難しく言いかえてるだけじゃないですか。
> 原因が違う。彼の心は異性の裡に入ることによって醜くなるわけではない。

 あ、と君は小さく声をあげる。

> 彼の心が醜くなるのは、異性の身体を得たときではなく、その身体を拒否したときだ。それに、なっちゃんは彼の心の動きとその変形した心の姿を推測して怖くなると言った。だけど、なっちゃんはそれをどうやって判断すると言うんだい?
> うーん。彼の言葉だとか行動だとか、そういうものからですけど。
> それだけだろ?
> うん。たしかにそれだけです。
> 最初の仮定に戻ろう。いま、彼は男性機能を失った身体のままだ。彼はそれでも君を求めてくる。それに対して、君は許容すると言ったね。だけど、それは彼が女性の身体を得て君を求める場合と、どんな違いがあるんだろうか?
> たしかに倉橋さんの言う通り、二つの仮定は同じ問題だと思います。だけど、それに対してわたしの見解が違ってくるのは、障害を抱えた彼の身体が以前のままという場合、わたしが彼の身体に愛着を感じているからです。だから、そういう違いが生じるんじゃないかと思うけど・・・。
> それでも、彼は彼だよ。
> わかってます。・・・ああ、もう、よくわからなくなってきちゃった。
> 混乱させてごめんね。ちょっと真剣になり過ぎちゃったかな? でも、お気楽に考えてくれればいいんだよ。あくまで、思考の遊びなんだから。
> はい。
> 彼からプレゼントもらったことはある?
> うん。婚約指輪。
> 婚約してるの?
> うん。妬けます?
> うーん、ちょっと口惜しいけど、自分を磨く糧にしよう。ところで、その指輪と全く同じものを他の人から交換して欲しいとねだられたら、君はどうする?
> そんなの、もちろん、断ります。
> どうして? 同じものなんだよ。
> 彼の気持ちを裏切ることになるし、うしろめたいし・・・第一、交換するほうの指輪には、心がこもってないじゃないですか。
> うん。心がこもった物ってよく言うよね。じゃあ、実際、その物自体には心があるの?
> それはないけど、でもわたしにとっては彼から貰ったってことは、すごい付加価値ですよ。
> そう君が思っているだけだけどね。
> もちろん、そうですけど・・・。
> じゃあ、ここにプラスティックでできた人形があるとしようか。とても可愛い人形だ。さて、これには心がある?
> ありません。
> ふうん。これは、ちょっと予定外だな。
> そんなの常識で考えればわかりますよ。もしかして倉橋さんは、わたしが「ある」って答えるとでも思ったんですか?
> 思ってた。困ったなあ・・・じゃあ、常識じゃなくて、感情的に考えてくれない?
> ないです。
> あれ・・・僕の分析ミスかなあ。《愛しの君》を大事にしてる君みたいな子なら「あるかも知れない」って答えると思ったんだけど・・・。
> 残念でした。わたし、そんなに子供じゃないもの。
> でも、僕が中学生のとき、君はまだ幼稚園だ。
> 倉橋さんの誕生日はいつですか?
> 八月二十四日だけど。それが?
> じゃあ、幼稚園じゃないです。わたし、早生まれだもん。
> ああ・・・小学生か。それでも、子供だ。おかしいなあ。僕の感じたところじゃ、君はお人形さんにいつも話しかけてて、例えば、お父さんに怒られたときなんかに人形に八つ当たりして、あとで「ごめんね」って泣きながらその人形に謝ったりするような、そんな女の子だと思ったんだけど・・・。
> ど、どうして、そんなこと知ってるんですか?
> やっぱりそうなの? 自信なくすところだったよ。じゃあ、訂正しなさい。人形には、心があるって。
> たしかにそういう頃もあったけど、いまは違います。
> 思ったより強情だね。まあ、いいか。たしかにいまの君は人形に心があるとは思っていない。でも、子供の頃の君はどうしてそういうことを考えたんだろうね。いまでも、人形を大事にしている人の中には、「人形には心がある」って断言する人もいる。それは何故だろう?

 その瞬間、君は突然、僕の言葉を思い出す。
《そのとき、君の中に僕は存在できないんだよ》
 あ、そうか・・・。
 君の脳裏にそのときのイメージが去来する。
 去年の夏、南の島で恋人と過ごした一夜――。
 小屋の外では、夕方、君の手を舐めていた鹿が鳴いている。
 その甲高い声を聞きながら、狭い山小屋の中で君は恋人に身体を寄せる。ペアで購入したシュラフを一つに合わせ、その中で君たちは横たわる。
 君の着衣はすでに脱がされ、あらわになった君の身体の線を恋人の指がゆっくりとなぞってゆく。君は森の蒼く清んだ空気の中に熱い吐息を混じらせ、そして、やがて恋人と一つになる。
 君の髪を優しく撫でる恋人の胸、その胸に顔を埋めて、君は小さく愛を囁く。
 愛してる?
 ねえ、わたしのこと、愛してくれてる?
 彼の愛を確かめようと、君はせつない声で訴える。
 ――そして、君は男の返事を僕の声で聞く。

> 投影・・・ですか?
> わかったようだね。

 君はこくりと頷く。

> 心はね、きっと寂しいんだ。多分、ひとりぼっちで寂しいんだよ。だから、心はたくさんの心を自分の裡に創造する。《愛しの君》というのは、その中で君の心が最も美しく創造した心のことだ。そして、心は創造した幾つもの心を現実世界の対象に投影していく。指輪のように人の形をしていない物、人形のように人の形をしている物、そして君の大事な人のように本当に生きている人間。それらに心があるかどうかなんて本当のところはわからない。ただ、君の心が自分の中に創造した心のうちの一つを投影しているかどうかにかかっていると僕は思う。もちろん人間は君と同じように一人一人が自由意志によって行動し、独自に思考し、そして言葉を操っている。それを観測すると、ヒトという種族には間違いなく心があるのだろうと推測できる。だけど、君は自分が心を持っているから、同族というだけで他人も心を持っていると判断しているだけだ。
> なんか、すごく寂しい。その話・・・。
> そうだね。ちょっと暗くなっちゃったね。
> 倉橋さんは究極的に考えれば、人間には心がないって言ってるんですか?
> 違う違う。あると思ってるよ。なっちゃんには間違いなく心があるし、他の人間も独立して思考するものである限り、心をちゃんと持っている。ただ、それを判断する過程が短絡化されていると言ってるんだよ。人間だから、イコール、心を持っているというふうにね。例えば、こんなケースを考えてごらん。君の目の前にとても精巧に作られた実物大のヒトの模型がある。それはどう見ても、眠っている人間にしか思えない完全な造型作品だ。君にはそれを人間かそれとも人形か判断する材料がない。君が困っていると、その人形は突然寝返りを打った。そこで君は、「ああ、これは人間だ」と判断する。目を覚ませば、一緒に旅行に出かけたり話ができたりする存在だ、とね。だけど、それは寝返りを打つところまでしか機能を持たせられていない機械人形だ。人間ではない。でも、君はすでにそれを人間だと思っているから、それに心があるかいと訊かれれば、イエスと答えるだろう? 人間の場合も、それと同じなんだ。いまの例では、単純に心の有無を問題にしただけだけど、僕が言いたいのは、結局のところ人間は対象の心を外からしか観察していないということなんだよ。そうするより他に方法がないからね。そうなると、その個体が本当に持っている心は、他人から見た心とは実際問題として別のものだってことになる。でも、投影された心を僕らはその個体の本当の心だと錯覚している。それだけのことだよ。
> そうか・・・だから、こんな人とは思わなかったって感じることがあるんですよね。
> うん。その人の心の一部分を観察して、残りの隠された部分を君の心が補ってるからこそ、その人の意外な言動にそう感じるときがあるんだと思うよ。ややこしい理屈だけど、わかった?
> はい。
> じゃあ、復習のためにまとめてくれる?
> えっ。うーん、つまり、物でも人でも動物でも、物理的に働きかけてくれる対象物に対して、人間は自分の心が創造した心を投影して、それをその対象が本来持っている心だと思っていると、そういうことですよね。
> うまくまとめたね。そういうことだ。いま、なっちゃんは「物理的に」って言ったけど、付け加えさせてもらえば、「精神的に」働きかけてくるものにも人間は心を投影できるんだ。彼氏が君にプレゼントしてくれた指輪には、君の彼氏に対する記憶や感情などが封印されている。指輪自身は言葉など発しないけれど、君に対してはっきりと精神的に働きかけてくるよね。その指輪を見るだけで、励まされたり、勇気をくれたり、彼氏のことを思い出したりとかいうふうに。そのとき、君はその指輪に人格的なものではないけれど、ある種の心のようなものを投影しているんだ。だから、心がこもっているという言い方をするし、同じものと交換しようと言われても拒否をする。物に対する現実には存在しないある種の付加価値が心なんだ。だから、その指輪にはちゃんと心があるんだよ。そして、それは誰が決めるわけでもない、君がそう決めるんだ。
> わかりました。
> OK。さて、これで、ようやくなっちゃんの質問に答えられるね。
> え?
> バイセクシャルの人間の性対象。
> あ、そっか。そこから始まったんですね、この話。
> 忘れてたのかい?
> 話をはぐらかされているんだと思ってました。
> 君は僕の大切な患者だ。お客様に対してそんな失礼なことはしないよ。
> 疑ってしまって、ごめんなさい。
> いいよ。でも、僕がわざわざ言わなくったって、なっちゃんにはもうある程度わかってきてるんじゃないかなあ? 君はさっき言ったよね。「だから、こんな人とは思わなかったって感じることがあるんですよね」って。それは逆を言えば、女性の身体を得た彼の心を君はある程度許容できるようになっているということだろう? つまり、肉体的な性別にこだわらず、彼の心を愛することが出来るようになったという宣言に等しい。
> うーん。理屈ではそうだけど・・・。
> そう、理屈でわかってくれればそれでいいんだ。じゃあ、いままでの僕の言葉をふまえて聞いてね。僕は心には性別さえないと思っている。心っていうのは、全くの白紙だと思うんだ。それに僕が絵を描いて、そして彩色している。だから、性別に関係なく、その人の心が美しいと思ったら、要するに美しく投影できたらってことだけど、そのときその人のことを愛するようになるんだ。性別じゃなく、心を愛するんだよ。
> だけど、それはその人を愛していることにならないんじゃないですか?
> なっちゃんは頭のいい子だね。僕の話を完全に理解している。その通りだよ。心を愛しているということは、その対象を愛しているということではない。究極的にはね。だけど、美しく投影することのできる対象物はやはり貴重な存在だ。何故なら、自分が最も愛する心が現実世界に安定して存在するためには、その拠りどころとなる「もの」が必要不可欠だからだ。つまり、対象となる「もの」がないと、心はこの世界に安定して存在できないんだよ。だから、心と同様に、その対象である人物のことも人は愛するんだ。
> 頭の中がこんがらがってきそう・・・。
> そうだね。でも、それが人が他の人を好きになるプロセスだと僕は思う。じゃあ、こういう話は知ってるかな? 人間や動物が親子や血の繋がった者に抱く愛情は、自分の遺伝子がより多く後世に伝わっていくために、遺伝子が画策しているものだっていうの。
> 知ってます。「利己的な遺伝子」ってやつでしょう。生物生存機械論。高校の生物で習いました。だけど、わたし、その理論、嫌いなんです。
> そう言う人、多いよね。でも、そう言ってくれると、話が早い。生物生存機械論っていうのは、リチャード・ドーキンスっていう二十世紀後半の動物学者が唱えた理論だけど、その理論では人間の夫婦愛っていうのが理解しにくくなってくる。遺伝子的に見て夫婦はつながりがないだろう? ドーキンスはこれを説明するのに、人間は大脳が発達しているからだとか、文化(ミーム)っていう全く別の遺伝子的な概念を導入した。だけど、僕が思うに夫婦愛っていうのは、君の言う《愛しの君》が投影される対象を個人が必要としている顕れなんだと思う。利己的に言えば、自身の心の安寧を得るために、どうしても、たとえ自分の命を投げうってでも、遺伝子的には無縁のその対象を守りたくなるんだよ。心が遺伝子の支配を越えたんだね。これこそが、人が人を愛するプロセスの最終段階だ。すでに投影という本来の目的はなくなって、人が本当に人を愛する。もうそれは投影なんかじゃなくて、融合だね。そこまで到達できる愛情はそうそうないだろうけれど、でも、それが本当の愛なんだと僕は思うよ。
> すごい。それ、倉橋さんが自分で考えたんですか?
> まあ、いろんな人の意見も下地として入ってるけどね。まとめたのは、僕だ。
> わたし、感動しちゃった。喝采を叫びたいくらい。
> ドーキンスが嫌いだからだろ?
> まあ、それもありますけど。でも、倉橋さんって本当に心のあたたかい人だと思います。理論理論理論で攻めてきて、最後にこんな幕の引き方するなんて全然想像もしなかった。
> ありがとう。まあ、僕の言ったことは考え方の一つに過ぎないけどね。実際、多くの動物がとる利他的な行動というのは、ドーキンスの遺伝子を主体にした進化論でほぼ完全に説明できる。だけど、さっきも言ったように、殊、人間に関して言えば、その行動を無理に遺伝子で説明しようとする意固地な考えは捨ててもいいのかも知れないと僕は考えている。例えば・・・そうだね、こういう例を挙げてみようか。人はなぜ浮気をするのか?
> うん。それも生物生存機械論のところで習いました。やっぱり、利己的な遺伝子の策略でしょう? より多くの異なる遺伝子と自分の遺伝子との交配を行って、子孫に多様性を持たせ、後世に伝わりやすくするための策略。だけど、わたし、そういう考え方って大嫌い。まるで浮気するのを肯定してるみたいじゃないですか。人間も動物だから浮気するのは仕方ないんだって。それに、大体、動物に対しても失礼だわ。「浮気」っていう人間が考えた概念を勝手に当てはめちゃうなんて。――ねえ、この問題を持ち出してきたということは、倉橋さんはさっきの理論でこれに対応できるんでしょう?
> あはは。話をそう急がないでよ。じゃあ、一緒に考えてみようか。
> はい。
> よし・・・じゃあ、そうだね。いまでは少なくなってしまったけど、例えば、亡くなった恋人や配偶者をいつまでも想い続けている人がいるよね。そういうケースに関しては、遺伝子が画策しているとは考えにくい。
> わかります。ちょっと昔のハードボイルドなんか読んでたら、そんな悲しい過去を持ったストイックな主人公がよく出てくるもの。わたし、ああいうの素敵だなあって思う。
> なるほどね。なっちゃんの言いたいことはよくわかるよ。そういう小説に出てくるような人は亡くなった人を想い続けて、現実の異性には見向きもしない。これは僕の職業的立場から言えば、あんまり健康的とは言えないんだけど、でも、理解はしてあげたくなる。別に問題はないじゃないか。それはそれで素敵な愛情じゃないかって。だけど、どうして、彼らは現実にはもういない人を想い続けることができるんだろう?
> 美化、でしょう? 記憶の中で亡くなった恋人が美化されてしまって、現実の人間じゃあ敵わない。
> そうだね。そのなっちゃんの考えをこういう表現で置き換えたらどうだろう? つまり、「その人の心の中の《愛しの君》を無限に進化させることができる」からだって。
> あ、うん。言ってることはわかります。
> 本当かい? じゃあ、浮気の問題もすべてわかったんじゃない?
> え・・・あ、そっか。倉橋さんって、やっぱり、すごい。そうですよね。
> わかったかい?
> うん。間違ってたら訂正してくださいね。人は何故浮気をするのか・・・それは、個人の心の中にある《愛しの君》っていうのは、いつも進化しているからです。本を読んだり、映画を観たり、恋人と付き合ったりする過程でその中の素敵な要素を吸収して、より進化した《愛しの君》が個人の心の中に創造される。そうすると、いままで《愛しの君》を投影できていた対象では投影できなくなってしまう。だから、さらに素敵な対象を求めるようになる。
> そうだね。訂正の必要はないでしょう。まあ、少し補足させてもらえば、《愛しの君》っていうのは、いつも最高の状態を保持している理想の恋愛対象像だ。だけど、その人の情操や知識が豊かになれば、《愛しの君》もそれに合わせて成長する。誤解のないように言っとけば、八〇点から九〇点になるんじゃなくて、一〇〇点満点のまま成長していくんだ。だけど、投影されている対象物はなかなか成長しないし、容姿など成長できない部分もある。それゆえ、人はよりよい恋愛対象を求めていくんだろうね。もちろん、新しい恋人がすべての点で優れているわけじゃない。昔の恋人のほうがある部分に関してはよかったというようなことも必ず出てくる。だから、さらにその二人のよい部分を併せ持った対象を求めたり、あるいは、昔の恋人とよりを戻したりするなんてことをするんだろうね。
> うん。完璧じゃないですか。亡くなった恋人を美化するっていうのは、現実の人間ではなかなか成長できない部分を、その人の想像で無限に成長させることができるからですよね。幻滅したり裏切られることが絶対にない。肉体的な接触は求められないけれど、そうした現実の性生活に重きを置いてない人だったら、これはもう理想的な対象ですよね。
> そう、そこでよく、禁欲的(ストイック)という言葉がハードボイルドには出て来るんだろうね。
> あ、それ、面白い考え方。そうかも知れない。
> あはは。鵜呑みにして他の人に言っちゃ駄目だよ。ハードボイルドの中では性欲に関してだけ克己的(ストイック)なわけじゃないからね。さて、それでいったん締めようか。人間の愛情に関しては、心が大きなウェイトを占めているってことは納得がいっただろう? 最初の話に戻らせてもらえば、僕らバイセクシャルの人間が性別には左右されないっていうのは、そういう心の働きがあるからだと思うんだ。まあ、僕のような趣味を持っている人が全員そういう観念を持っているかどうかは知らないけれどね。
> ふうん。あ、じゃあ、倉橋さんの《愛しの君》はもともと性別がないんですか?
> そうだね。君のようにはっきりとした存在じゃないから断言はできないんだけど、人格じゃないのかも知れないね。信条とか理念みたいなものかな。そういうふうにもともと性別を持っていないから、いまの恋人の性別に影響されるんだろうと思うよ。以前の僕の恋人は彼女だった。いまは彼氏。性差に関係なく一番綺麗だと思った人を好きになることができるから、なっちゃんよりは自由かな? だから、いまの彼氏がどんな身体に生まれ変わろうとも、あんまり気にならない。どちらかって言えば、肉体的な性欲っていうのも、僕らには希薄だからね。もちろん、接触は求めるけど。
> 何か、すごく不思議。素敵な愛の形のような気もする。
> そう思ってくれると嬉しいよ。以前はいろいろ言う人がいたけど、いまじゃ、僕のような性癖を持った人間もある程度市民権を得てきてるし、僕自身、自分のこの性癖を引け目には思っていない。もちろん、崇高だとも思ってないけど。少し長くなったけど、わかってくれた?
> うん。なんとなく理解できました。
> じゃあ、これでなっちゃんも僕らの仲間だ。
> えっ、そうなっちゃわないと、理解してないことになるんですか?
> あはは、うそうそ。理解はしてるけど、実際にはなれない。前に理屈でわかってくれればいいって言っただろう? それでいいんだよ。それが心なんだから。
> ああ、よかった。
> でも、なっちゃん。
> はい?
> これだけ言葉を尽くして、自分の考えを伝えても相手の心までは変えられない。・・・言葉っていうのは無力だよね。
> うん。そう思います。

「本当に、そう・・・」
 キーボードにそう入力しながら、君は同じ意味の言葉を口にする。
 そして、昼間の由利さんとの会話を思い出す。
《でも、お父さんみたいな人、私は好きだな》
 あのとき、どうして、わたし、何となく嬉しくなったんだろう?
 君の脳裏に再びそのときの疑問が浮かぶ。
 言葉は無力だという倉橋さんのメッセージを画面に見たとき、一瞬、君はその答えがわかったような気がしたが、すぐにそれは霧散していた。
 君はそれが少し口惜しい。
「何だったかしら?」
 わからなくなったのかい?
「うん。消えちゃった・・・。ねえ、《愛しの君》は覚えてる?」
 君はお父さんの子供だってことさ。
「身内びいきってこと?」
 違うよ。蛙の子は蛙ってこと。
「あ――」
 君の中でいくつかの思考が交錯する。
 そして、さっきは捕まえそこなった一条の光。
 君はようやくそれを捕らえた。
 君はあのとき父の美徳を教えて欲しいと由利さんに懇願した。
 しかし、彼女はそれを許さなかった。
 導いてあげることはできる。だけど、問題を抱えている心の病根とその意味するところに気付き、変えていくのはあなた自身だ。
 彼女はそう言った。
《言葉は、残念ながらそうそう心の奥までは届かない。もしうまく届いたとしても、その心を変えることは難しいの》
 由利さんのその言葉を、君はカウンセリングの方法論を指して言っているのかと思っていた。だけど、由利さんはあのとき答えを言ってくれてたんだ、と君は気付く。
 カウンセリングとは、お互いに信頼関係(ラポール)を築き、心を開いて、話し合うことだ。心に届けと相手に発信し続けることだ。だけど、それはカウンセリングに限らず、普段の会話でもそうではないか。心の通った会話をしようとするなら、言葉を大事にするのは当たり前のことだ。たとえ言葉が無力でも、たとえそれがどんなに難しくても、言葉にしなければ気持ちは伝えられない。
「お父さんはそのことを知ってたんだ・・・」
 君はぽつりと呟く。
 どんなに頑張っても、言葉に還元しようのない気持ち。その存在を知っていたから、彼はなおさら自分の言葉に責任を持っていた。自分の言葉に、真剣に向き合っていた。だから、彼の言葉は、ときとして抜き身のように鋭かった。
 君は言葉に妥協を許さなかった父親のことを、思いやりがないと嫌っていた。歯に衣着せぬ言い方を傲慢だと断罪していた。
 しかし、妥協とは自分の考えを相手に合わせることだけを指して言うのではない。
 妥協とは、相手の心を軽んじることだ。
《お父さんにというより、私に対して失礼よ》
 その言葉の本当の意味を君はようやく理解した。
 わたしは由利さんの心をないがしろにしていたのだ。無意識のうちに由利さんを共犯者に引き込み、わたしの心の醜い部分を彼女の心に癌細胞のように植え付けようとした。だから、由利さんは「私に対して」と言ったのだ。
 同時に、君は父親が自分をひとりの人間として認めていてくれたことを知る。
 厳しい言葉の裏に隠された君に対する真摯な態度。
 君はお父さんの思いやりに気付かなかった自分が嫌になる。
 謝らないといけないね・・・。
「うん・・・」
 以心伝心、不立文字。
 豊かな表情、愛撫、抱擁、沈黙。
 ボディ・ランゲージ。
 目は口ほどのものを言う。
 君の思考の中にいくつもの言葉が浮かぶ。
 ――愛してるよ。
 百億の愛の言葉より、無言のままの彼の抱擁。
 彼の冷たい肌を通して、君は彼の気持ちを知る。
 言葉だけでは、自分の心は表せない。だから、人は身体を持っているのだろう。
 いまの電脳社会のことを、由利さんは、棲み分けが進んだ結果だと言った。だけど、人が言葉や映像、あるいは音楽のようなデジタル信号に変換可能なメディアだけを表現方法として選択することは、表現できない心の一部を切り捨てることに繋がっている。
 それは決して進歩ではない。
 堕落だ。
 自分と、そして相手の心に対して、怠惰になることだ。
 そこまで考えて、君は一瞬思考の中に煌めいた光の正体に気付く。

> 倉橋さん、わたし、わかりました。わたし、父の娘なんです。
> え? 何の話?
> どうして本物の山に登るか、わかったんです。
> それはまた、突然だね。聞かせてくれるかい?
> 倉橋さんのおかげなんですよ、わかったのは。

「そして、由利さんの・・・」
 君はそう呟きながら、考えをまとめる。

> なんて言うか・・・そう、きっと、わたしの身体が喜んでるからなんです。脳じゃなくって身体。足にまめを作ったり、草で足や腕を切ったり、その擦り傷がお風呂でしみたり・・・自分の身体に形として残る記憶っていうのかな? そういうことなんだと思います。
> 草で足を切るの?
> うん。寒い季節じゃなかったら、わたし、アプローチのルートはショートパンツで歩くから。風がさわさわして気持ちいいし・・・。
> なるほどね。続けて。
> はい。たしかにそういうことも、最近のバーチャル・トレッキングでは味わえるようになってきてる。風や匂いや、朝露で足もとが湿る感触なんかも。いろんな要素が限りなく本物に近くなってきてる。だけど、それを感じているのはわたしの脳だけなんです。きっと、バーチャルじゃ、脳は騙せても、身体は騙せないんじゃないかと思うんです。だから、わたしは実際に山に行くんだと思います。
> いい答えを見つけたね。君は山に登りたいと思う。そう考えるのは、君の脳だ。だけど、君の欲求はそれだけじゃ説明がつかない。すなわち、脳と心は別のものだってことを言ってるんだね。
> あ、そう言われれば、そうか・・・そういうことですよね。そこまで考えが回りませんでした。
> いやいや。僕が言わなくても、君はたぶん気付いてた。可愛い哲学者さんだ。
> ・・・よかった。合格点、もらえたみたい。でも、エッチの話にしては、あんまり色気がなかったですね。このくらいだったら、わざわざ、ログオフにしなくてもよかったくらい。
> そう? じゃあ、せっかくだから、僕のほうから話題を提供しようか。疲れちゃいない?
> 大丈夫。
> よし、じゃあ、話を続けるよ。なっちゃんはオーガズムを感じたことはある?
> え・・・一応、あります。
> それはどんな感じ?
> 一言で言えば、せつない・・・かなあ? 倉橋さんだって知ってるんでしょう? その・・・あのときの感じ。
> 僕は基本的には男役だから。
> うーん。ログオフにしといてよかった。
> だろう?
> うん。じゃあ、男の人の場合はどうなんですか?
> まあ、似たようなものだね。
> あー、誤魔化してるでしょう。ずるいなあ。わたしだって、答えるの恥ずかしかったんですよ。
> 聞くのも恥ずかしいんじゃない?
> それは、そうだけど・・・。わかりました、さっきの質問は取り下げます。倉橋さんの意地悪。
> あはは、ちょっとどきどきする導入だっただろ? さて、ここからが本題。セックスのときに感じる快感はどんな意味があるか知ってる?
> え・・・意味なんてあるんですか?
> もちろんあるよ。
> うーん。なんだろう? 教えてくれません?
> 簡単なことだよ。まあ、一言で言えば、御褒美かな? つまり、報酬だね。
> そんなに短絡的に考えていいんですか?
> そうだよ。人間が子孫を残すのを促すために、性交時、脳内麻薬物質が出るように遺伝子が画策してるんだ。
> また、遺伝子ですか? 遺伝子の画策による御褒美。うーん、やっぱり嫌な感じ。
> そうだね。だけど、どうしてその御褒美がせつない気分なんだろう?
> うーん、御褒美って言うんだから、要するに人間はせつないのが好きってことじゃないんですか?
> その通りだ。御褒美なんだから、当然、好きなもののはずだよね。だけど、せつないっていうことは、欲求が満足されてない状態を指すんだから、一種のストレスでもある。それが御褒美なんて不思議だよね。
> うーん、よくわかんなくなってきた。倉橋さん、答えを知ってるんですか?
> いいや。実は僕もよくわかってない。
> じゃあ、せつないっていう最初の答えが間違ってるんじゃないですか? たしかに感情としてはせつないけど、実際感じてるのは「気持ちいい」ですよね。
> じゃあ、せつないって感情はどこからでてくるんだろうね。
> それは、エッチしてるときも相手の人のことを想ってるからじゃないかなあ?
> 具体的にはどういう意味?
> 結婚前の女の子にそういうこと聞きます?
> うん。カウンセラーだから。
> ずるいなあ、もう。・・・んと、つまり、一緒になろうとしてもなれないってことです。あのことだけを指してるんじゃないですよ。例えば、肋骨の隙間まで彼の身体で埋めて欲しいっていうのかな、そういう意味。
> なっちゃんって、そんなに痩せてたっけ?
> 失礼ね・・・もう答えてあげませんよ。
> うそうそ。なっちゃんの言いたいことはわかるよ。さらなる一体化を切望してるのに、皮膚がそれを邪魔してるってことだろ? できることなら完全に一つの身体になりたいのに、肉体という殻がそれを阻んでいる。
> うん、そうそう。
> だから、せつない・・・か。確かにそういう考え方もできるね。まあ、そういうことなのかな。一応それを解答としとこうか。
> 倉橋さん、納得いかないみたいだけど。
> いやいや、別に答えを限定するような話でもないからね。構わないよ。こういう話、好きかい?
> 面白いです。あ、そうそう、せつないって言えば、わたしの高校の国語の先生に「セツナイ先生」っていう人がいたんですよ。
> 何、それ? あだ名?
> そうです。本名は小山内(おさない)先生なんだけど、「せつない」って言葉が好きなの。授業中に必ず十回は口走る。だから、セツナイ先生。ちなみに男性です。
> へえ。きっと若い頃は文学青年だったんだ。
> そんな感じじゃなかったなあ。髭もじゃで、文学にはあんまり縁のないような顔してたけど。
> 人を見かけで判断しちゃいけないよ。
> はーい。もうしません。・・・で、わたしの友達がすごいこと発見したんですよね。
> どんなこと?
> セツナイ先生が作るテストの必勝法。例えば、作品を読ませて、「この物語の主人公がなになにしたときの気持ちを想像して一〇〇字以内で書け」とかいう問題があるでしょう?
> うんうん。そういうの、よくあったね。何だか懐かしいなあ。
> はるか昔の話でしょ?
> あはは、肋骨の話の仕返しかい?
> そうです。それで、そのテストの問題がわからないとするでしょう? そうしたら、とにかく八十字くらいは何でもいいから文章を書くんです。最悪の場合には問題文から丸写ししちゃう。それでその文章の最後に「~というせつない気持ち」って書いて、マル。
> それでちゃんと点数もらえた?
> うん。少しくらい見当違いなこと書いても配点十五点のところ七点くらいはもらってました。
> なるほどねえ。国語の問題の採点は採点者の主観が大きく影響するからね。なっちゃんて、結構、悪い子だったんだ。
> うん。真夜中に知らない男の人とエッチな話をするくらい悪い子でした。
> あはは、その通りだ。エッチと国語って言えば、そうだな、こんな話をしようか。なっちゃんは、セックスの最後に訪れる快感をどんな言葉で表現してる?
> ・・・愛の言葉です。
> 現在、ログオフ中。
> もう、やだなあ。他の人たちと同じです。
> つまり?
> 「いく」です。
> 正直に答えてくれて、ありがとう。日本人はそう言うよね。じゃあ、英語圏の人はどう言うか知ってる?
> 「COME」ですか?
> そう。日本語に訳せば、「来る」だよね。「行く」と「来る」、これって不思議だと思わない?
> 本当。気がつかなかった。そう言えば、全く正反対の言葉ですね。
> これってさ、自分の気持ちの表現方法が文化や環境によっても大きく違うってことだよね。いや、表現方法じゃなくて、感じ方そのものが違うのかも知れない。つまり、受容する心そのものが。
> うん。そう思います。
> 心ってさ、宗教とか住んでる場所の気候とか、いろんなものに影響されて形成されるんだろうね。環境を栄養にして育つっていうのかな。
> うん。たしかに日本人って「誓う」っていう言葉を日常的にはあんまり使いませんよね。アメリカの映画なんか見てたらしょっちゅう使ってるのに・・・それって、日本人の心から神様がいなくなったからだって誰かが言ってた。
> そういうところにも心の違いが現れてるってことさ。――でも、「いく」って、どこかに行っちゃうって、何かこう、せつないよね。
> あれ? もしかして、それがさっきの問題の正解なんですか?
> いいや。全然違うと思う。さっきのなっちゃんの答えのほうが正解に近いよ。さて、いい加減疲れただろう? 少し眠ったほうがいい。

 君は倉橋さんの言葉に従って、目を閉じる。
 さっきまで、眠気など感じなかったのに、何故か急に眠くなっている自分に君は気付く。もしかしたら、知らないうちに倉橋さんが導入剤を入れてくれたのかも知れない。
 途切れゆく意識の片隅で、君はふと倉橋さんの言葉を反芻する。
 ――わたしの答えのほうが正解に近い。
 ということは、その判断材料である正解を倉橋さんは知ってるん・・・だ・・・。
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