らんぼ~流 山屋の視点
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 次に君が目を覚ましたとき、ディスプレイには由利さんからの伝言が表示されていた。
 何かしら、と君が上体を起こそうとすると、それを察知したかのようにベッドの背が立ち上がってゆく。
「わたしが起きたのが、わかったんだ・・・」
 脳波もモニタリングされてるからね。
「知ってるわ。・・・あ、見て。真彦さんからメールが来てるって」
 よかったね。
「うん。メールチェックするの忘れるくらい、心配させてるんだと思ってた。でも、時間の感覚がないから、あんまり『待った』って感じはしないけど・・・」
 由利さんと倉橋さんが入れ変わった回数からすれば、君が気がついてから三日目の昼だよ。いま、モニタルームに由利さんがいればの話だけど。
「そうだね。わたしが眠ってた時間が、二十四時間以内だったらそうなるね」
 もしかして、それ以上眠ってるって思ってるの?
「ううん。単純に仮定の話。だけど、長時間ぐっすりと眠ってるような気がするの。なんだか頭の中がとってもクリアなんだもの。・・・世界がすごく新鮮に見える」
 それは入院っていう非日常的な体験をしてるからじゃない?
「うん。そうかも知れない。でもね、世界が新鮮っていうのは、そういう意味じゃないの。なんて言うのかな・・・目の前の光景がね、透明感があるっていうか、一点の曇りもないって感じなの」
 言ってることがよくわからないなあ。
「わたしの言い方が悪いんだろうね。とにかく、画像や音声の情報に全然ノイズが混じってないわけ。曇りガラスの眼鏡をかけてたところに、いきなり透明度の高いアクリル製のレンズをはめ込まれたような感じ。――ううん、それより、レンズとかそういったものを通して見てる映像じゃないみたい」
 ふうん。
「納得しないでよ。自分でもよく表現できないんだから」
 あはは・・・頷いてあげたのに、怒ることはないだろ? でも、まあ、きっと気のせいだよ。それとも、点滴されてる薬のせいか。
「うん。そうだね」
 画面上の確認ボタンをクリックして伝言ウィンドウを閉じると、同時にチュートリアルが始まった。いつものコミュニケーションソフトの画面左側にあるフォルダアイコンが規則的に点滅し、吹き出しの中に「ここをクリックしてください」というメッセージが表示される。どうやら、そのフォルダの中に恋人からのメールが入っているらしい。
 前に由利さんが説明してくれたように、この端末は院外へはつながっていないはずだ。だから、恋人からのメールを直接メーラーで受け取ることは出来ない。そもそも、この端末で動いているコミュニケーションソフトには終了コマンドそのものが見当たらないし、アクティブウィンドウの切り換え機能もないから、メーラーを含めて他のソフトを起動させること自体が出来ないように設計されていた。チュートリアルで示されているフォルダも実際のものではなく、この無愛想なソフト上に構築された仮想フォルダなのだろう。
 最近ではすでに馴染みの薄くなりつつある非感覚的なコマンド操作に不慣れな患者がソフトを誤って終了させてしまわないための配慮なのだろうが、普段からユニットを経由しないでコンピュータを操作している君にとっては何とも歯がゆいばかりだ。
 君は恋人からのメールが格納されているというフォルダを開けてみる。フォルダの中には、ドキュメント形式のファイルがふたつ入っている。ファイルサイズが大きいデータは、君が目覚めた日に書籍サービスからダウンロードしたミステリだろう。
 君は迷わず小さい方のファイルを開くと、新規ウィンドウの中に表示された恋人からのメールに目を通す。プライベートなメールは自動的に丸文字に変換されるようにカスタマイズされた君の自宅の端末と違って、いかにも無機質な文字の羅列だ。
 だけど、君にはそれがずっと探し求めていた魔法の呪文のように見える。
 朽ち果てた屍に命を吹き込む奇蹟の呪文。
 その呪文は思ったほど長くはないけど、君に対する思いやりにあふれていた。
 君の目の奥が少し熱くなる。
 泣いてるの?
「涙が出るほどじゃないけどね。ちょっと感動してる。・・・ごめん、少し一人にしてくれない?」
 君はもう一度、恋人からのメールを読み返す。
 メールには、君を励ましたり心配したりするような優しい言葉はほとんど使われていない。どちらかと言えば、若干の皮肉とお叱りの手紙だ。特に君が彼に黙って家に押し掛けようとした深夜の強行軍を戒めている。『このお転婆娘』『悪い子だ』――そういう言葉が幾度も繰り返されている。君はそのぶっきらぼうな言葉に彼の愛を感じる。あれこれ心配せずに早く怪我を治せという彼の気持ちを感じる。
「だけど、本当にそっけない」
 君はこんなときでも普段着のままの姿で接してくれる恋人に苦笑し、そして、感謝する。
 君は彼からあきれ顔で軽く頭をこづかれているような気持ちになる。君の起こした重大な事故が、まるで食べかけのソフトクリームを地面に落としたくらいの出来事のようだ。
 手紙の最後には、まだ詳細は決まっていないけれど、医療費のほとんどが自動車の製造メーカーから出されるだろうという意味の文章が書かれていた。
「真彦さん、いろいろ処理するのに走り回ってくれたんだろうなあ・・・。本当に心配かけちゃった」
 君はそっと目を閉じて、彼の姿を夢想する。

「明日はあそこに登るんだよね」
 君はテントの張り綱を引っ張りながら、恋人に声をかける。
 君たちはいま、焼野三差路と呼ばれている場所にいる。東西約二十七キロ、南北約二十五キロに及ぶ屋久島のほぼ中央部、ちょうど宮之浦岳と永田岳との分岐点にあたる場所だ。
 君の視線の先には、今回の山行で一番の目的地である宮之浦岳が間近に迫って見えている。すでに森林限界を超えているので、視界を遮るような樹木は一本もない。山肌を埋めているのは、背の低い屋久笹(やくざさ)石楠花(しゃくなげ)くらいだ。
 こうして見ていると、宮之浦岳はまるで手入れされていない伸び放題の芝生で覆われた不格好な丘のようだ、と君は思う。そこに運動会で使う玉転がしの玉のような巨大な石ころがごろごろと散在している。どちらかと言えば、樹林帯を歩くのが好きな君には、あまり魅力的な山ではない。だけど、丸二日間かけてようやくその姿に邂逅した君には、やはり感慨深いものがある。
 遮蔽物が全くないので、頂上は君の立っている場所からでもはっきりと見てとれる。ちょっと手を伸ばせば、すぐにでも届きそうなほどだ。荷物を担いでなければ、ここから走って十分もかかりそうにない、と君は勝手な想像を働かせる。
「ああ。――おい、奈津、もうちょい強く引っ張れよ。夜は風が強くなるかも知れない」
「本日の第四問。冬場は北西の季節風が強く吹きます。さて、夏場は?」
「ばかやろ。いま現在、風が吹いてる方向を考えろよな。現場の判断は臨機応変だ」
「なるほど。夏場は臨機応変と――」
 君はくすくす笑いながら、慣れない手つきで地面にペグを打ち込んでいる恋人を見つめる。
「真彦さんてば、結構、ぶきっちょ」
「うっせー」
 君はいま、最高に機嫌がいい。
 歩行距離の長いコースだけに体力的に辛い山行になるだろう。そう覚悟していたわりには、そこまで君の身体は疲労していない。わずかに筋肉痛はあるものの、少し歩けばあまり気にならなくなるくらいだ。心配していた靴擦れもテーピングをしているおかげで、まだ起きていないし、天候にも恵まれている。「一ヶ月に三十五日雨が降る」と言われる屋久島にしては考えられない幸運だと君は思う。台風が来ない限り、夏場は雨が少ないとはいうものの、師匠をはじめとする経験者の話を聞いていると、やはり屋久島には雨がつきものらしい。それなのに、わずかなガスさえかからない晴天だ。最初の宿泊地だった旧高塚小屋から、ここまで来る途中のルート上に点在するいくつかの展望台からは、遥かに連なる一面の山々を見ることができたし、昼食をとった平石(ひらいし)では、他のパーティーの人たちと山の話に興じることができた。中でも、宮崎市から来たというおばさんがしてくれた、まだ行ったことのない九州本土の山の話は君の想像をかき立てた。
 そして、何よりも、いまの君を楽しくさせているのが、テントでの宿泊だ。もちろん、君には初めての体験である。いままでいろんな山に登ってきたけれど、ほとんどが日帰りか、宿泊しても山小屋でのことだった。三人用とはいえ、荷物を運び込んでしまえば、大人二人が横になるのが精一杯の狭い空間の中で、恋人と二人きりになれることが、君には嬉しくてたまらない。
「今夜はいびきをかかないでよね」
 ようやくテントを張り終えた恋人に君はそう笑いかける。
「俺より先に寝てたくせに何言ってんだよ」
「寝てないよお。目を瞑ってただけ」
「あ、そう。俺はまた、失神でもしたかと思ってた」
「すけべっ」
 今夜の君たちの夕食はカップヌードルだ。恋人は二つ、君は一つ。物足りないときは、クラッカーとカップスープでお腹を慰めようと君は思う。
 ガスストーブとコッヘルでお湯を沸かすと、カップに入れて三分待つ。このへんは昔から変わらない。いまの技術をもってすれば、お湯を注いだ瞬間に食べられるようにもできる。だけど、食欲を感じてから三分間じらされたあとというのが、人が食べ物を一番美味しいと感じる瞬間だというのを君は何かの本で読んだことがある。
「三分間待つのだぞ・・・」
「何それ?」
「昔のカップヌードルのCM。こないだ、リバイバルでやってた。昭和時代の復刻パッケージのやつ」
「お前ってさ、余計なことに脳味噌の容量使ってるよな」
 恋人が笑いながら皮肉る。
「失礼ね。――ねえ、真彦さんのこのクラムチャウダー味のラーメン、どんな味なのかな?」
「クラムチャウダー味」
「もうっ。それがわからないから聞いてるの。大体、なになに味っていうのは、基準になるそのものの味を知ってて、初めてそういう概念が生まれるわけでしょう? わたし、クラムチャウダーなんて食べたことないから、もし今度食べることになったら、きっと、カップヌードル味のクラムチャウダーっていうふうに感じると思う」
 君がそう言うと、恋人は堪えきれないというふうに笑い出す。
「あのさ、腹、痛くなるからやめてくれる? そういうふうに目をきらきらさせながら、真面目な顔で可笑しいこと言うの」
「可笑しいかなあ・・・わたし、すごく真面目だよ」
 君は少しむくれて抗議する。
 恋人はまだ少し笑っていたけれど、すぐに真顔に戻ると、そっと君の顔に手を添える。
「何?」
 戸惑う君の唇を恋人は自分のそれで優しくふさぐ。
「奈津。お前って、すげえ可愛いやつだよ」
「すげえ変だけど・・・って続けるんでしょう?」
「それは胸の奥にしまっとく」
「ありがと」
「さて、さっきのお前の発言だけど、要するに、ちょっと味見させて欲しいのかな?」
「うーん。たしかにそういう意味にも取れるね」
「三分経ったぜ。一口でも二口でも味見しろ」
「うん」
 君は恋人のラーメンのスープを少し飲んでみる。本物のクラムチャウダーの味に似ているかどうかはわからないけれど、これはこれでとても美味しいと君は思う。
 多分、自分の家でこれを食べてもここまで美味しいとは感じないだろう。だけど、こういう場所で食べると、どんな御馳走にも負けない味だと君は思う。
 どうして、楽しい場所で食べると何でも美味しくなるんだろう?
 どうして、好きな人と一緒に食べると何でも美味しく感じるんだろう?
 君は以前からそれを不思議に思っていた。
 活字や画像情報ははっきりと思い描くことができるのに、頭の中で音楽を鳴らすことだってできるのに、どうして食べ物の味は頭の中にはっきりと再現できないんだろう?
 匂いにしてもそうだ。毎日のようにコーヒーを飲んでるのに、その香りを好きなときに頭の中で再現できないのは何故だろう?
 君はフォークを使う手を止めて、ラーメンをすすっている恋人の顔を見つめた。
 そして、声に出さずに呟いた。
 味覚って、何だろうね・・・。

 山の天気は気まぐれだ。
 君たちが食事を終えてしばらくすると、テントがパラパラと音を立て始めた。
「あ、雨だ・・・」
 君がそう言って、テントの入り口から顔を出すと、今日歩いてきた方角の空を切り裂くように一条の稲妻が走るのが見えた。
「きゃっ」
 君は小さく叫ぶと、すぐにテントの中に首を引っ込める。
「いま、雷が光ったよ」
「知ってる。テントの中まで明るくなった」
 恋人がそう言うと、同時にさっきの稲妻の音がテントを揺すぶった。
「地面まで震えてる・・・」
 君は少し青ざめて呟く。
 標高の高い場所での雷の怖さを、君は師匠から聞いて知っている。平地と違って、稲妻がかなりの距離にわたって地面を走るときもあるという。
「結構、近いな・・・」
 恋人がそう呟くと、再びテントの壁一面がストロボのように光った。それを合図にしたように、雨足が急速に強まる。君を取り囲むように、テントがものすごい音を立て始める――。

 師匠と知り合ってから数ヶ月、君はウェブの中だけでは物足りなくて、実際に師匠の家に会いに行くようになっていた。訪ねるたび、師匠は君を孫のように可愛がってくれる。君のほうも師匠に会うのが楽しみでならない。道が荒廃していまではもう登ることができなくなった山の話、仕事の話や恋人に対する愚痴。君はいろいろなことを師匠に尋ね、そして、話して聞かせる。普段、父親とあまり話をしない君は、自分とは遥かに年の離れた山歩きの先輩に父の姿を重ねていたのかも知れない。
 そうして、何度か通っているうちに師匠が君に見せてくれた物がある。
 それは君が生まれる前――いまから三十数年も昔に山で命を落とした師匠の友人の遺品だった。
《そのときはちょうど妻が身体を壊していてね。僕は仲間の誘いを断った・・・》
 師匠はそのときの様子を乾いた声で君に語る。
《遭難の報を聞いて僕は彼を捜しに行った。そのとき、これを拾ったんだ》
 師匠は雪焼けした浅黒い顔に生えている灰色の顎髭を撫でながら言った。
 遺品は二個組になったアルミのコッヘルだった。相当使い込んであったらしく、黒ずんでいて形もべこべこだ。内底の部分には、ご飯か何かが焦げ付いた痕と、それを少しでも落とそうとフォークでひっかいた銀色の線が無数に走っている。その歪んだコッヘルの側面に、他のものとは全く異質の二つの傷があった。そのうちの一つはへこみではなく突起だ。まるで内側からポンチで叩いたような、そして、外側から叩いたような一対の穴。
《これは?》
 君はその部分を人差し指で撫でながら聞いた。指の腹に突起が触る感触が、君には何だか心地よい。
《雷が通った痕だよ。ここからこう入って、ここから抜けた》
 君の指の動きがぴたりと止まる。君は指先でなぞっていた穴をしばらく見つめたあと、小さな顔をゆっくりとあげて師匠に尋ねる。
《雷が・・・ここを通ったの? こんな小さな穴が?》
《そうだ。僕にはどうしてそうなるかなんて理屈はわからないけど、その持ち主は雷に打たれて死んだ》
 師匠はそう言うと、君の淹れたコーヒーを一口飲んだ。
《まだ、三十五だったかな・・・。若かったよ。夢のように若かった》

「ちょっと怖いね」
 君は雷の音を聞きながら、恋人に言う。
 本当はちょっとどころではない。君はすごく怖いと思っている。
 右手に持ったココアの入っているシェラカップを君はじっと見つめた。それに師匠の家で見たアルミのコッヘルの映像が重なっている。
「大丈夫さ。きっと夕立だよ。すぐに止む」
「真彦さんは怖くない?」
「どういうふうに答えて欲しい?」
「全然怖いことないよって言って欲しい」
「残念でした。やっぱ、怖いです」
 笑いながらそう言う恋人の肩に、君は自分の肩をぶっつけると、男のくせに、とやり返す。
「男でも怖いものは怖いさ」
 恋人はそう言って微笑んだ。
「正直だろ?」
「もう・・・可愛い恋人が不安になるでしょう?」
 君がそう言うと、恋人はそっと君の肩を自分のほうに引き寄せる。
「だけど、一緒にここにいるだろ?」
「え――」
 その言葉を聞いた瞬間、君の心の中から恐怖が消え去った。いや、昇華し、そして変質した。愛する人と一緒にここにいるというリアルな感覚は、不思議なくらい君を落ち着かせていく。
 もちろん、何も状況は変わっていない。こうしているあいだにも、雷がテントに落ちるかも知れない。師匠の古い友人のように皮膚が裂けて死ぬかも知れないし、手に持っているチタンの食器にポンチで叩いたような二つの穴が空くかも知れない。
 だけど、その恐ろしいはずの突然の嵐にテントを激しく揺すぶられながら、その中で、何故か幸福感を感じている自分を君は見つける。彼と愛し合った昨夜よりも、さらに奥深い幸福感を、君はいま間違いなく感じている。
 両手で膝を抱えたまま、恋人のほうへ身体をすり寄せながら、テントを叩く雨の音に自分の言葉が打ち消されてしまうように君は小さな声で呟いた。
「ねえ、幸福って何だろう・・・」

 君は回想を中断すると、もう一度恋人と一緒に山に登ろうと決意する。たとえ、どんなハンディキャップを背負おうとも、彼の気持ちが変わらない限り、もう一度あの幸福な時間を過ごしてみたい。
 君は彼のメールをデリートせずにそのままフォルダに残しておくことにした。退院するときには、由利さんか倉橋さんに頼んで自宅へ転送してもらおう。楽しみにしていた彼との旅行が中止になったのだから、せめてこれくらいの記念は残したいと君は思う。
 由利さんにメールのお礼を言わなければと思いつつも、君はそのまま落としておいたミステリをロードして読み始める。
 もう少しだけ、一人の時間を過ごしたい。
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